古田敦也
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古田 敦也現役引退後に行われたOB戦イベント
(2019年7月11日 明治神宮野球場
基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県川西市
生年月日 (1965-08-06) 1965年8月6日(58歳)
身長
体重182[1] cm
80 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1989年 ドラフト2位
初出場1990年4月11日
最終出場2007年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


兵庫県立川西明峰高等学校

立命館大学

トヨタ自動車

ヤクルトスワローズ
東京ヤクルトスワローズ
(1990 - 2007)

監督歴


東京ヤクルトスワローズ (2006 - 2007)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2015年
得票率76.8%(332票中255票)
選出方法競技者表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

古田 敦也
YouTube
チャンネル

フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】

活動期間2021年4月22日 -
ジャンル野球
登録者数約68.6万人
総再生回数248,313,632回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人

チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年10月25日時点。
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オリンピック
男子 野球
1988野球

古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日 - )は、兵庫県川西市出身の元プロ野球選手捕手、右投右打)・監督野球解説者スポーツキャスタータレントYouTuber日本プロ野球名球会理事長。株式会社エーポイント所属。マネジメント事務所は株式会社ビッグベンと業務提携。妻は元フジテレビアナウンサー中井美穂。血液型はB型。
概要

選手としてヤクルトスワローズ→東京ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。史上14位タイの8度の年間打率3割達成者で、シーズン盗塁阻止率.644と通算盗塁阻止率.462は日本記録。捕手としての生涯打率の日本記録保持者。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。

2004年プロ野球再編問題発生時には日本プロ野球選手会会長として球団側との先頭に立ち、史上初のプロ野球ストライキ決行を主導して交渉を導いた。

マイナビニュース』にて2014年に実施された「『ミスタースワローズ』といえば誰ですか?」のアンケート(投票者数:マイナビニュース会員733名)では得票率47.5%を記録し、2位以下を大きく引き離して1位を獲得[2]
経歴
生い立ち

川西市立加茂小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。100人ほどの小学生が所属していた少年野球チームであり、AからDの4チームに分かれていた[3]。入団直後、Dチームに入れられたが、Dチームにはキャッチャーがいなかったという理由と「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される[3]。少年時代に好きだった選手は梨田昌孝である。また、当時は阪急ブレーブスファンクラブ組織である「ブレーブスこども会」の会員でもあった[4]屋敷要は小学校の先輩で屋敷と入れ違いで入学。互いの妹同士は同級生である[5]

地元の中学校で野球を続けるが、野球がうまいため上級生から暴力、1リットルのコーラの一気飲みの強要、度を越した罰走などのいじめを受け野球をやめた。親にやめると話したらいろいろなところに掛け合ってくれて、夏休み明けの2学期から転校した[6]宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。

3年の8月から受験勉強を始め、関西大学商学部、立命館大学経営学部経営学科の一般入試を受験し、どちらも合格した。合格後は高校時代の監督から立命館の練習に参加するよう勧められ、そこで評価を得た。当時、関西学生野球リーグにおいて関西大学は立命館大学より強豪だったため、関西大学への進学を決めて、入学を断るつもりで立命館大学へ挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命館大学硬式野球部監督の中尾卓一に大喜びされ強引に押し切られた[7]。またその夜、先輩に高級料亭における夕食に誘われ、京都の祇園の夜の街に魅せられたことで心変わりし、1984年春に立命館大学に入学して、硬式野球部に入部した[8]。同期の同学科には寺地永が居る。
立命館大学時代

高校時代は裸眼の視力は0.5程あったが、受験勉強により、0.1にまで下がった。大学キャンパス内で先輩に会った際に大きい声であいさつしなければならないため、大学に入ってから眼鏡をかけるようになった。古田は「見えませんでした、気がつきませんでしたじゃすまされないんで、もう眼鏡をかけるしかないと…」と語っている[9]

当時の関西学生野球リーグは近畿大学の全盛期であったが、3年時の1986年には、エース岩本利仁とバッテリーを組み、チームを春季・秋季連続優勝に導く。4年時の1987年にはキャプテンを務め、日米大学野球選手権大会日本代表に選出されるなどその実力はプロ各球団からも注目され、この頃にプロを目指すようになった[7]。リーグ通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナイン(捕手)に4度選ばれた。

野球部の中尾監督に日本ハムのスカウトから上位指名の連絡が入っていたため、11月18日のドラフト会議当日には大学が会見用のひな壇を設置し、垂れ幕まで用意されていたが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった[10][11]。当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって[12]、日本ハムは指名を取りやめたと後に新聞連載に記載している[13]。また、2009年の自著ではやはり乱視が原因なのではないかと振り返っており[14]、後のインタビューでも古田はメガネが原因で外れたと語っている[7]。後年に古田は、この際の屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという強い気持ちに繋がったと述べている[15]。プロ入りが成らなかった古田は一般枠で新卒採用に応募し、トヨタ自動車から内定を得て[7]、1988年3月に立命館大学経営学部を卒業して経営学士号を取得した。
トヨタ自動車時代

1988年4月、トヨタ自動車に入社した古田は人事部に配属され、野球部の練習が無い時間帯には従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営などに従事していた[7]。新人研修ではディーラーで営業の仕事もした。古田は社会人野球時代を経たことで普通の金銭感覚が身につき、当時の経験がプロ入り後にも役立っていたと語っている[7]

トヨタ自動車硬式野球部では1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。NTT東海硬式野球部の補強選手としてチームの準優勝に貢献した。8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表となるが、古田は当時「(プロに行くために)五輪メンバーに選ばれないといけない」と考え、ジャパンの監督が誰か、バッテリーコーチが誰かと調べて、野球観を調べた。すると「元気があって、国際大会の環境の悪い中でもへこたれない、あきらめないやつが好きだ」との情報を得て、すぐに実行。何十人と来る選考会で「ボール回しでも“ヤー”とか言いながら、一生懸命、声出して野球をやった」[16]。そして、見事に日本代表の座を射止め、野茂英雄潮崎哲也らとバッテリーを組み、決勝でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。

古田は1989年のドラフト会議に際し、巨人かヤクルトを希望していると報じられた[17]。ヤクルトは大卒時の1987年のドラフトでも古田を指名候補に入れていたが、この時は2位以上でないとプロ入りしないとの情報を受けて[18]事前に撤退したとされている。ただし、この時のドラフトでヤクルトから1位指名された長嶋一茂によれば、立教大学の先輩で父の茂雄とも親しかったスカウト部長の片岡宏雄に「古田くんをなぜ獲得しないんですか?」と聞いたところ、「メガネだ。目」とメガネが理由であることを聞かされ、疑問に思ったと語っている[19]

当時のヤクルト野手陣は関根潤三監督の下で池山隆寛広沢克己ら若手が急成長し次々とレギュラーを獲得して着実に陣容が強化されていたが、その中で唯一残されていた課題が捕手だった。ベテラン八重樫幸雄の後の正捕手の座を争っていたのは主に秦真司中西親志の二人だったが、秦は打撃に優れるが守備難で捕逸が多く、中西は捕球に優れるが打撃が打率二割に満たない非力さで、さらに両者共に盗塁阻止率が低かったので[20]、強肩・好守の即戦力捕手の獲得が急務だった。自身も捕手だった片岡スカウト部長は、オリンピックで経験を積んで進境著しい古田のプレーに惚れ込んで獲得に動き、担当スカウトの羅本新二に古田との交渉を進めさせ、夏の編成会議で相馬和夫球団社長、田口周球団代表、関根監督ら球団首脳に古田を強く推薦して了承を取り付け[21]、古田の2位指名が内定した[注 1]。古田はトヨタへ挨拶に訪れた片岡からドラフト指名の意思を正式に伝えられたが、大卒時にプロ球団の裏切りに遭っていた古田は不信感を拭い去ることができず「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も片岡に念を押している[23][24]

しかし、10月に相馬・田口の推す若松勉ではなく、ヤクルト本社社長の桑原潤が推す野村克也が新監督に就任すると状況が一変する。野村は大学の間に変なクセがついてしまう傾向があるなどとして「大学出に名捕手はいない」という持論を展開しており[25]、就任直後の『週刊ベースボール』の取材に対しても、高卒4年目で強肩の若手・飯田哲也を自らの手で正捕手に育て上げるという構想を示していた[26]。そして大卒社会人で眼鏡をかけている古田の指名をやめるよう要求してきたが、片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と反発。球団幹部も古田指名の方針を崩さなかった。片岡は指名直前にも野村が「古田はやめよう。捕手はワシが育てる」と食い下がったと語っているが[27]、ヤクルトは当初の予定通り古田を2位で指名した[9]

これに対し野村は自著で、就任直後のドラフトに際し自分が片岡に今年のドラフト候補に良い捕手はいないのかと質したところ、片岡が古田の名前を出して「メガネをかけているんですが…」「打撃には目をつぶってもらえますか」と言ってきたので、メガネをかけていても問題は無いと言って古田を獲得するよう命じたと主張[28][29]。また古田との対談でも「編成部長(※スカウト部長の誤り)に『いいキャッチャーいないか?』って言ったら、『一人います。でも、メガネかけているんですよね』って。これが、後々俺が大反対しているように言われて。俺言ったことないから」と大笑いし、「今、コンタクトもあるし、レンズも軽量化して問題じゃないのに、そんなこと言う訳ない。あれには参った。それで編成部長が言うのよ。『バッティングは目をつぶってくれますか?』って。まあ、キャッチャーは守れて、頭よくて、肩が強ければそれで十分って言って、それで(古田獲得に)いこうって。まさか獲れるとは思わなかったけど、これも一つの縁だよね」と主張し、上記片岡の意見とは対立している[30][31]

そもそも、野村と片岡の間には同年ドラフトでの黒須陽一郎をめぐる一連の問題を発端とするドラフト指名戦略の違いや片岡が懇意にしていた立大野球部の一つ上の先輩でもある長嶋茂雄に対する野村の度重なる挑発、そしてその息子・一茂の扱いへの不満など、様々な問題を巡っての根深い確執があり[32]、古田指名の件についても当時ヤクルトのスカウトだった鳥原公二(後にスカウト部長)は「野村はドラフト前の会議まで古田との指名約束があること自体を知らなかったため、会議では「もう決めている選手がいる」と訴えるスカウト側との間で攻防があった。


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