古河藩
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古河藩(こがはん)は、下総国葛飾郡(現在の茨城県古河市)に存在した。藩庁は古河城
藩の前史

古河城の発祥は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての御家人である下河辺行平により築城された[1]

室町時代になると足利尊氏は関東統治のために鎌倉府を設置した[2]。初代鎌倉公方(関東公方)は尊氏の子基氏であった。鎌倉公方は基氏の曾孫で第4代持氏の時、京都の第6代将軍で尊氏の曾孫義教と対立。永享の乱を引き起こして持氏は自害させられ、鎌倉府は滅亡した。義教の没後、持氏の遺児成氏は罪を許され、宝徳元年(1449年)に鎌倉に戻って第5代鎌倉公方となる[2][3]享徳3年(1454年)12月、成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した[3]ことを端緒として享徳の乱が引き起こされる[2]山内上杉家は憲忠の後継者に実弟の房顕を立てて体制を立て直し、室町幕府の第8代将軍足利義政に支援を要請した[4]。成氏は房顕を武蔵分倍河原で破ったが[3]、房顕の支援を決定した義政が駿河今川範忠を動かし[3]、享徳4年(1455年)4月には後花園天皇より成氏追討の綸旨と御旗を賜って成氏を朝敵としたため、成氏は鎌倉を放棄して古河を本拠とした[4][3]。以後、成氏の系統は古河公方と呼ばれる[3][4]

成氏は長禄元年(1457年)に修復が完了した古河城に正式に入城した(『鎌倉大草紙』)[4]。当時の古河公方は下総・下野常陸に及ぶ強大な勢力圏を誇った[4]。成氏は幕府の派遣した堀越公方足利政知や上杉家と抗争を続けたが、文明9年(1477年)に成氏は和睦を申し出て5年後に幕府と古河公方家は和睦した[3]。成氏は明応6年(1497年)9月に病死[3]。息子の政氏が第2代古河公方となる[3]。政氏は外交方針をめぐって嫡子の高基と対立[3]。父子が不和になって内紛を起こし、最終的に高基が勝利して政氏は追われて高基が第3代古河公方となる[3]。だが高基の実弟の義明が還俗し、上総守護代武田氏の勢力を背景にして小弓公方として独立するなど[5]、次第に古河公方の衰退は明らかになっていく。高基は勢力挽回のため、関東で台頭し始めていた北条早雲氏綱に接近し、嫡子晴氏の正室に氏綱の娘を迎えて北条との連携を図り[3]天文7年(1538年)には小弓公方を滅ぼした[5]

だが高基の跡を継いだ晴氏は関東管領上杉憲政に接近して氏綱の嫡子氏康と敵対。天文15年(1546年)に武蔵河越で氏康と戦い兵力では圧倒的に優位ながら大敗した(河越城の戦い[6]。以後、古河公方家は後北条家の影響下に置かれ[6]、その勢力範囲内の各所を居所として転々とした[6]。晴氏は永禄3年(1560年)に死去[3]。子で第5代の義氏は北条準一門として古河公方に立てられるが[5]、嗣子が無く天正10年(1582年)に死去[6]。古河公方は断絶して後北条家より以後は古河に城番が置かれた[6]
藩史
小笠原秀政の時代

天正18年(1590年)に関白豊臣秀吉により小田原征伐が行なわれ、7月に後北条氏が滅び、8月に秀吉の命令で駿河など東海に5カ国を領有していた徳川家康は関東8カ国に国替えとなった[7]。家康は古河を重要視し、亡き嫡男松平信康の娘婿である小笠原秀政を3万石で入部させた[7][8]

秀政は荒廃していた古河城を修復・拡張し、隆岩寺を開基した[9]。ただし、古河城を修復・拡張する間は、一旦、栗橋城(現在の茨城県五霞町及び埼玉県久喜市)を居城としていたようで、開基した隆岩寺が古河市内と五霞町内にそれぞれ独立しているのがその証である[9]。慶長6年(1601年)、信濃守護の末裔の秀政を家康は故郷に2万石加増の5万石で戻し、秀政は信濃飯田へ移封された。
松平康長の時代

慶長7年(1602年)、上野白井より松平(戸田)康長が2万石で入った[9]。康長は小牧・長久手の戦いから後には大坂の陣まで参戦した武功派重臣の1人で、久松俊勝の娘を正室にしていたことから松平姓を許されていた。古河藩では古河城の拡張(大手門等)、整備を行なっている[10]。慶長17年(1612年[9]常陸笠間へ移封となった。雀神社の社殿造営。
小笠原家の時代


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