古文銭
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古文銭(こぶんせん[1]・こもんせん[2])は、中国の銭貨のうち、代から代にかけて発行されたもの[3]
概要

古い文字(主として篆書)が刻まれているから古文銭と呼ぶ[1]。古文銭という用語は『珍銭奇品図録』[4]・『新校正孔方図鑑』[5]に既に見られる。

「文」という漢字には、「円形方孔の銭貨」という意味があり[6]、古文銭という用語も本来円形方孔のもの、つまり秦代から隋代にかけて発行されたものに限られて使用されていた。ところが、1997年の文献[2]によると、現今では先秦の円形円孔のものを古文銭に含める者も多いという[7]。実際、2009年に発行された『日本貨幣カタログ2010年版』でも、代から隋代までの銭貨を古文銭としている[8]

年代としては古圜法の次に発行されたもの。武徳4年(621年)、開元通宝が発行されるが、開元通宝以降は通常古文銭とは呼ばない[9](平銭と呼ぶ文献あり[10])。

半両銭五銖銭・貨泉(紀元前221年 - 585年)など、渡来銭として日本国内で流通したものもある[11][12]。16世紀中国から日本への主要な輸出品として「古文銭」を挙げる史料もある[13]。なお、前漢の五銖銭に吉祥語を刻んだものがあったり、朝鮮半島や日本では五銖銭が副葬品として使われるなど、厭勝銭としての使用例もある[14]
古文銭一覧

この表には、国家が正式に鋳造・発行したものの他、民間で私的に製造したものなども便宜的にここに列するものとする。

「銭文」欄の「←」は「名称」欄の現在通用する名称と同じことを示す(その際、新字体と旧字体などの違いは無視した)。

材質は特記しないものは銅製である。

発行王朝名称銭文発行年解説
秦半両半兩紀元前221年重量が表記通り半(12)あった。
前漢楡莢半両半兩秦末 - 前漢初期
(八銖半両発行以前)民間で鋳造、重量1銖程度。
八銖半両半兩紀元前186年重量8銖。この銭の発行とともに民間での貨幣鋳造は禁止された。6銖程度のものは以前六銖半両と呼ばれたが、八銖半両の小型と考えられている。
五分半両半兩紀元前182年重量2銖4?で、本来の半両(12銖)の5分の1に当たる。実際には更に小型化されたものもある。
四銖半両半兩紀元前175年重量4銖。この銭の発行時、品質を一定にすることを条件に再び民間での貨幣鋳造が認められた。
三銖←紀元前140年実際の重さと貨幣表記が一致する貨幣。発行開始から4年後に廃止。
郡国五銖五銖紀元前118年五銖銭の最初のタイプのもの。実際の重さと貨幣表記が一致する貨幣として発行開始。中央政府とともに各郡国でも鋳造されたので品質が一定しなかった。紀元前113年廃止。
赤側五銖五銖紀元前114年郡国五銖5枚分の価値を持たせたもので、租税納入に使用させたが、発行翌年の紀元前113年に郡国五銖とともに廃止。
三官五銖五銖紀元前113年郡国五銖・赤側五銖を廃止した代わりに発行したもの。この銭の発行時、朝廷以外での貨幣の鋳造は禁止された。
小五銖五銖紀元前113年前漢時代の他の五銖銭と比べて極端に小さく、直径は約12mm。一般通貨として流通したものではなく、埋葬用の貨幣(冥銭)として三官五銖銭と同時期に鋳造されたものと考える見方が一般的。
大泉五十←7年当初五銖銭50枚分の価値、小泉直一発行後は小泉直一50枚分の価値とされた。王莽銭の中ではある程度量産され流通した。
小泉直一←9年五銖銭を廃止し、その代わりに五銖銭1枚相当の価値として発行したもので、当時の基準単位となり、王莽銭の中ではある程度量産され流通した。
幺泉一十←10年宝貨制における銭で、上から順にそれぞれ小泉直一10枚分、20枚分、30枚分、40枚分の価値とされ、小泉直一・大泉五十と共に六泉と呼ばれたが、これらの銭は実際にはほとんど流通せずに終わり、現存数も少ない。
幼泉二十←
中泉三十←
壮泉四十←
貨泉←14年大泉五十と等価として発行したもので、この銭の発行時に宝貨制における諸貨幣は廃止された。日本でも弥生式土器とともに出土する。20年頃には同じ貨泉でも本来の貨泉よりかなり重いいわゆる「餅貨泉」が出現し、この餅貨泉は秤量貨幣として使用されたと考えられている。
布泉←14年頃文献に記載がなく、通貨としてではなく通行証・入門証など、特殊な用途・目的で鋳造されたという説がある。
後漢後漢五銖五銖40年前漢時代の五銖銭に比べて厚みがやや薄く、重量はかなり軽い。
董卓五銖
董卓無文小銭(五銖)190年董卓相国となっていた時期に発行された非常に小さく薄い粗悪な銭で、「五銖」の文字も完全にまたはほとんどなくなっている。
剪輪五銖(五銖)後漢末期後漢末期の董卓五銖(董卓無文小銭)が流通していた頃、民間では五銖や貨泉などの銅銭を打ち抜いて外と内の2つに分割して2枚として使用することが行われ、内側は「剪輪(せんりん)銭」、外側は「?環(すいがん・えんかん)銭」と呼び、董卓五銖(董卓無文小銭)と共に当時の「悪銭」として使われた。
?環五銖(五銖)
剪輪貨泉(貨泉)
?環貨泉(貨泉)
魏五銖
曹魏五銖五銖220年頃後漢五銖より小型化されており、考古学による三国時代の墓地の発掘で発見された。
蜀漢蜀漢五銖五銖221年これも後漢五銖より小型化されている。
直百五銖←214年蜀漢五銖や董卓五銖・剪輪銭・?環銭などの「悪銭」100枚分の価値として発行されたもので、蜀漢のみならず魏や呉でも通用した。
直百←蜀漢末期直百五銖の省文銭で、直百五銖よりかなり小型化され、しかも年代とともにその直百も小型化されていった。
直一←蜀漢末期蜀漢五銖に代わって鋳造されたかなり小型の銭で、現存数は少ない。
(地方)太平百銭←後漢末期一説では五斗米道の張魯が発行した貨幣とされており、蜀漢の直百五銖はこれの影響を受けたとも言われる。
世平百銭←後漢末期太平百銭と同系列の貨幣と考えられている。
太平百金←三国期これも太平百銭と同系列と考えられている。太平百銭よりかなり小型化された銭。
定平一百←三国期これも太平百銭と同系列の小型銭。
大泉五十←236年頃上から順にそれぞれ五銖銭(悪銭)50枚分・500枚分・1000枚分・2000枚分・5000枚分の価値とされた名目貨幣だが、文献に記載があるのは大泉五百と大泉当千の2種類のみである。呉の大泉五十は新の王莽の大泉五十とは異なる。額面に見合うだけの重量のある貨幣ではなかったため、流通するうちに貨幣価値の低落と物価高騰を招き、246年にこれらの名目貨幣は廃止された。
大泉五百←236年
大泉当千←238年
大泉二千←238年
大泉五千←238年
西晋晋五銖五銖265年頃これも小型の五銖銭。従来蜀五銖と呼ばれていたものは、発掘調査から晋時代のものという説がある。
東晋沈郎五銖五朱318年小型で粗悪な五銖銭の一種。銭文の「五銖」の金へんがなく「五朱」となっている。
前涼涼造新泉←317年頃重量約2g。五胡十六国時代の混乱の中で銭が鋳造された数少ない例の一つ。
成漢漢興←338年頃重量約1gの薄小な銭。縦書きと横書きの2タイプがある。銭銘の漢興は当時の元号で、中国で元号を入れた史上初の貨幣。
後趙豊貨←319年頃重量約3g。同じ五胡十六国の涼造新泉・漢興にも言えることだが、五胡十六国の混乱の中での極度の銭貨不足を解消するには至らなかった。
太夏真興←419年真興は当時の元号。現存数は数枚程度しか確認されていない。
南朝宋四銖430年実際の重さと貨幣表記が一致する貨幣。五銖銭の伝統からは外れる形だが、それまでの軽小銭よりは大型となっている。
孝建四銖表:四銖
裏:孝建454年四銖銭の裏面に元号である孝建の文字を入れたもの。
孝建←454年孝建の元号のみを記した小型銭。
両銖←これも実際の重さと貨幣表記が一致する貨幣。
永光←465年銭銘の永光景和は両者とも当時の元号で、銭貨は両者とも18mm・1.2g程度の小型銭で現存数は非常に少ない。
景和←465年
南朝斉斉五銖五銖479年頃15mm程度のかなり小型の五銖銭。
南朝梁内郭五銖五銖502年表面に内郭(穴の周りの盛り上がった部分)のあるこの時期としては良質の五銖銭。
鉄五銖五銖523年銅不足により鉄で鋳造した五銖銭だが、極端なインフレを引き起こし、経済は大混乱した。
太清豊楽←547年太清は当時の元号で、この銭では太清の文字が横倒しになっている。


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