古文書
[Wikipedia|▼Menu]

古文書(こもんじょ)とは、特定の対象に伝達する意志をもってする所の意思表示の所産である[1]。広く「古い文書」の意味でも使われるが、歴史学上は古記録と区別されることがある[2]
日本の古文書.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2020年2月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2020年2月)


羽柴秀吉朱印状(25ヵ条の大陸国割計画書)/前田育徳会所蔵

日本の歴史学では、文献史料は古文書と古記録に分けられ、古文書とは特定の者に対して意志表示を行うために作成された文字史料で差出人と受取人が存在するものをいう[2]。これに対して特定の相手に向けたものではなく受取人が不特定で意志が一方的に表示されている文字史料を古記録という[2]。多くの場合、古記録は二次史料、古文書は一次史料である[2]

古文書には当時の原本(「正文」しょうもん)が宛所の家にそのまま伝わる場合と、下書き(「草案」そうあん/「土代」どだい)が差出人の家に控えとして伝世する場合がある。また、朝廷幕府が同じ命令を各地に出すときや、分家するときに先祖が発給を受けた文書を分家に写しとして分与したり、訴訟で証拠書類を提出するとき、正文をもとに写しを作成する。これら写しは「案文(あんぶん)」と呼ばれている。

また偶然、機能を終えた文書の裏面を利用して写本を行ったり、裏面に草案をしたためたりして廃棄されずに、別な形で伝世する場合がある。このような文書を「紙背文書」と呼ぶ。

なお、日本の国宝重要文化財に指定されている古文書については1975年(昭和50年)度からは「書跡・典籍の部」とは別に「古文書の部」として指定されている。同年、国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)が改正され、「古文書の部」の指定基準が「書跡・典籍の部」の指定基準とは別個に定められている。古文書の部の既指定物件には書状(手紙)類が多く、厳密な意味での古文書・文書のほか、日記などの記録類、絵図、系図なども含まれている。
古文書学

古文書を研究する歴史学上の一つのカテゴリーであり、史料学の一分野とみなされる。主に古文書の様式分類を研究目的とする。大学文学部歴史学科などで専門課程講座講義として設けられている場合が多い。ほとんどの日本史学専攻の学生は受講しなければならないよう義務付けられている。授業の内容は古文書の様式といった基礎知識の伝授と実際の読み下しが行われていることが多い。

前近代社会にあっても、古文書の研究は存在したが、それは訴訟などで証拠として提出された文書の真偽を鑑定するためであった(こうした偽文書は謀書と呼ばれ、極刑にされる場合もあった)。また、故実家が礼法の研究として古文書を研究して書札礼を確立させたりした。もっとも、江戸時代に盛んであったのは芸術品としての古写本古筆切などの鑑定をもって商売とする古筆家の活動であった。

「古文書学」として学問分野での研究が行われるようになったのは、明治時代に入ってからである。明治期に西洋の歴史学から実証主義的な研究法をから影響を受け、久米邦武、星恆、黒板勝美などが中心になり日本における古文書学・記録資料学が発展した。

古文書学においては古文書の所蔵者から資料調査が行われる。資料調査は現物の古文書(群)を観察し、料紙の状態や寸法、宛所や署判、付箋などの各要素について調べ、写真図版も作成する。内容についても文字を解読し、年代や伝来経緯を推定するが、場合によっては特徴を比較するため関係する既出の古文書や年代の前後する古文書が参考資料として用いられる。

これらの作業は個人の主観が入る余地があるため、古文書学を学んだ複数の調査員により実施されることが多い。調査した古文書(群)のうち新出資料として学術的価値の大きいものは学術研究誌等で翻刻され紹介される。

また、古文書学の手法は歴史研究においても用いられ、古文書の形式や書札礼、数量的統計や年次的変化などに着目し人間関係や社会的背景について考察する手法が応用される。
古文書の形態

古文書は料紙(和紙)に記される。料紙は横長に使用され、大きさは様々だがおおよそ縦27センチメートルから35センチメートル、横42センチメートルから55センチメートルである[3][4]

料紙を全紙のまま使うとき、その形状を竪紙とよび、これに書かれた文章を竪文(たてふみ)という。また、全紙を横半分に折って折り目を下にした形状を折紙、料紙を裁断して使う形状を切紙という。これらは1枚の紙片に書かれる文書なので一枚文書と総称される。1枚の料紙に文章が収まりきらない場合は次紙に書き継がれるが、その場合でも料紙を貼り継ぐことはない。一枚文書を送付または保存する際には表を内側になるように折り畳み封をするが、紙面が複数あるいは礼紙が付く場合は、重ねて折り畳まれる[4]

対して送付または保存しやすいように紙を巻いて仕立てた形状を巻物、あるいは巻子(かんす)という。この場合2枚以上の紙は貼り継がれる。巻物は長文の文書で用いられる形状だが、元々一枚文書であった紙を順番に貼り継いだ手継文書も巻物に仕立てることが多い。また貼り継いだ紙を折りたたんだ形状を折本という[4]
料紙の部分名称

料紙には部分呼称があり、どの部分に書かれるかによって文章の呼び方も異なる[3]

紙面の右端を端と呼び、ここに記される本文とは連続しない文章を端書という[3]。文書の本文は端から5分の1程度のところから書き始めるのが普通だが、端から本文1行目までの余白部分を袖と呼ぶ。袖に書かれた文章を袖書、袖の花押を袖判という。袖書の内容は色々だが、本文が紙に書ききれない場合は袖に戻って書き続けることもある。また本文の内容を上級者が承認・認可する場合を袖に書くことがあり、これを外題などという[3]

対して左端に近い部分、特に日付や充所よりも左の余白を奥という。奥には追而書を記すこともあるほか、軍忠状などでは証判などを据えることが多い。また本文の執筆者以外が後に書き込むものを奥書という[3]

文書を送付または保存する際には、表を内側になるように奥から折り畳む。このようにすると端の裏が表になるが、この文を端裏と呼び、ここに書かれた文字を端裏書という。端裏書には本文要旨や日付などが書かれるほか、特に訴訟関係文書では、奉行らが書く者は端裏銘と呼ぶ。また書状では宛名や差出名も書かれる事がある[3]

紙面の裏面にも文章などが記される事があるが、これらは裏書・裏花押・裏証判・裏文書などという[3]
古文書の分類

古文書は時代や差出人と宛所の関係などで様々な種類がある。日本で正式に文書の様式が定められたのは大宝元年(701年)に制定された大宝律令の中の大宝令に於いてである。その後、養老律令で整備されたといわれている。律令期から摂関院政期までは公式文書としてこれらの文書が使われ公式様文書と呼ばれていたが、次第に簡略化された文書が主流となる。一般的にそれら簡略化された文書は公家様文書と呼ばれている。鎌倉幕府成立以降、武士も様々な文書を発給する必要が出た。彼らは公家様文書を下敷きに様々な文書を編み出し、それらは武家様文書と呼ばれている。

こうした古文書の分類は明治36年(1903年)に黒板勝美が著した論文「日本古文書様式論」(ただし、刊行は昭和15年(1940年))によって用いられ、戦後佐藤進一の『古文書学入門』(昭和46年(1971年))によって定説化された[注釈 1][5]

上記に掲げた分類は、上から下へ発給する文書である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef