古川タク
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古川 タク(ふるかわ タク、本名:古川 肇郁(ふるかわ ただいく)、1941年9月25日 - )は、日本の男性アニメーション作家、イラストレーター絵本作家である。日本アニメーション協会(JAA)会長。日本漫画家協会参与。

任天堂社長の古川俊太郎は子[1]
来歴・人物

三重県上野市(現・伊賀市)出身[2]三重県立上野高等学校大阪外国語大学イスパニア語学科卒業。

アニメーションからイラスト、漫画と活躍は多岐に渡る。個人製作によるシンプルな画風ととぼけたユーモアのアニメーションで世界的な評価を受けた。線画タッチの作品が多いのはソール・スタインバーグの影響。日本ではNHKの『みんなのうた』を定期的な作品発表の場とした。技法の面では、1830年代初頭のヨーロッパで発明されたアニメーションの元祖ともされる「フェナキスティスコープ(Phenakisti-Scope)」を復興。絵を描いた円盤を回転させる原理というは分かっていたものの、具体的な製作方法が不明だったフェナキスティスコープを試行錯誤の末に再現することに成功して、1974年に「おどろき盤」と名付けた。これを用いたアニメ『驚き盤』で、1975年アヌシー国際アニメーション映画祭審査員特別賞を受賞した。フェナキスティスコープゾートロープを用いたジャンルでは第一人者である。

手塚治虫に憧れて、三重県での高校時代から漫画を描き始める。大学在学中は大阪外国語大学に籍を置きつつ、上京して、TCJ(現・エイケン)で働いた。テレビアニメ鉄人28号』の制作初期(4話まで)に参加したという。当時の日本は個人作家によるアートアニメーションの勃興期でもあり、古川も、和田誠柳原良平によるCMアニメーションや、上映会で見たノーマン・マクラレンの『線と色の即興詩』や久里洋二の『人間動物園』などに魅せられて、アートアニメーションの世界を志すようになる。大学卒業後の1964年に久里洋二が主宰する洋二実験漫画工房へ入社し、本格的にアニメーション技術を学び始める。この頃、横尾忠則、和田誠、宇野亜喜良、伊坂芳太良のアニメーションを手伝ったことは良い経験になったという。洋二実験漫画工房に3年余り在籍した後、1968年に独立。個人で自費出版をしたり個展を開催、小さなイラストの仕事をこなしながらアニメーションを自主製作した。1969年にアヌシー国際アニメーション映画祭に出品した『牛頭』が入選したことで、やがてNHKから『みんなのうた』のアニメーション制作の依頼、雑誌「話の特集」「平凡パンチ」のイラストの仕事が舞い込むようになり、仕事の拠点として1970年にタクン実験漫画BOXを設立。

挿画、装丁などエディトリアルのイラストレーションの他広告関係では三菱電機西武百貨店の新聞雑誌広告や三共製薬富士フイルム不二屋JTスモーキングクリーン他のTVCMにてキャラクターデザインとアニメーションを担当、現在は龍角散のCMを放映中。

なお、一部ネット情報などで流れているレッドブルのCMの作者というのはまったくの間違いである。

2003年には、東京工芸大学にてアニメーション学科の設立に関わる。2005年から2015年3月まで研究室を持ち、学生を指導した(肩書は教授、客員教授、特別講師)。

直近では同人紙「月刊てりとりぃ」において連載コラム「古川タクの“なにか面白いことないか?”」を連載中。またwebの「週刊てりとりぃ」では、作曲家桜井順とのコラボレーションで「ヒトコト劇場」という描き下ろし超短篇アニメーションを連載。「月刊てりとりぃ」https://territory.hatenadiary.org/   「週刊てりとりぃ」http://weeklyterritory.blogspot.jp

2018年には、シャンソン歌手クミコが歌う「最後だとわかっていたなら」に合わせたショートアニメーションを製作した。

新千歳空港国際アニメーション映画祭名誉実行委員長、文化庁メディア芸術祭運営委員、日本アニメーション協会(JAA)会長。
受賞・受章歴


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