古墳
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大仙陵古墳は、日本最大の古墳にして前方後円墳の代表例。宮内庁は.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)と呼び、仁徳天皇陵墓(別名:仁徳天皇陵)と治定(じじょう)している。画像は国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

古墳(こふん)とは[1][2][3][4][5][6][7][8]

原義・第1義としては、「古い」「古人の墓」を意味する。日本では少なくとも平安時代中期以来の日本語漢語)である[注 1][注 2]

第2義・考古学的語義・近代以降現代の語義としては、「墳丘墓」・「盛土(封土)をした古代墳墓」を意味する[6][7]

最狭義には、日本の古代に属する一時代古墳時代という)に築造された特定の形態の墳丘墓を指す歴史用語である[4]。高塚(たかつか)ともいう[5][6]

東アジアにおいて権力者の墓として墳丘墓が盛んに築造された[3]。本項はこれ以降、特筆しない限りは日本の古墳について解説する。

「古墳」という日本語は、古代[9]から近世[2]にかけては「古人の墓」全般を指す語であったが[7]、墳丘をもつ墓が知られていたより古い時代(弥生時代)にも存在することが考古学の発展によって判明して以来[6]、「前方後円墳出現以降の、墳丘をもつ古い墓」を指す語に変わり[1]、弥生時代に続く古墳築造の隆盛期を「古墳時代」と呼ぶようになった。現在の日本史では、一般的に「3世紀半ばから7世紀頃にかけて日本で築造された、墳丘をもつ墓[2][3][11]/高塚の墳墓[4]」を「古墳」と呼び、他方、弥生時代の墳丘墓は「墳丘墓[11]奈良時代の墳丘墓は「墳墓」[11]、中世の墳墓は「中世墳墓」[4]、近世の墳墓は「近世墳墓」[4]と呼んで、それぞれに区別する。

また、現代日本語の「古墳」は、国際的に通用する普通名詞として用いるか(※第2義)、日本の古墳のみを指す固有名詞に近い語として用いるかという(※第3義・最狭義)、未だ明確に定義されない異なる語義が並立しており[6]、この点に断り無くどちらか一方の意味で用いられることにより、時として齟齬が生じる。

現代日本語「古墳」に相当する現代英語は kofun [12]が通例であるが、ancient burial mound [13]など mound(意:、墳丘墓、ほか)に説明を付け加える形でのかなり曖昧な言い回し[14]も多く、特に日本に限定する場合は in Japan を付け加える[注 3]などする。
概要

考古学者・松本豊胤は「ため池造成や水田経営を積極的に進めた豪族たちが、自らが開発した地域を見渡せる場所に古墳を造営していった」と説明している。

古墳は、規模や化粧方法の違いによって類別されるほか、その平面形状、さらに埋葬の中心施設である主体部の構造形態によって細かく分類編年されている。

墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める版築工法で築成されるものも多いこと、こうした工法は飛鳥時代奈良時代に大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明している。

北海道式古墳として末期古墳がある。7世紀から10世紀に東北地方北部や北海道で造られた墳墓で、「蝦夷塚」とも呼ばれる。

大韓民国(韓国)南西部でも前方後円墳とよく似た形の古墳が多数見つかっており、日本から朝鮮半島に渡ってきた有力者らが埋葬されているものと推測されている[15]


発生

古墳は、規模・形状、およびその他の要素において、弥生時代初期の墓制と比べると大きく異なり、弥生墳丘墓からも発展している。古墳は、特定少数の埋葬法であり、同時代の集団構成員の墓と大きく隔たっており、地域的にも不均等に出現する。古墳の発生は、墓制の単なる変化や葬送観念の変化にとどまらず、社会・政治の全般に関わる問題として現れた。

古墳発生の問題は、戦前から議論されていた。その中で、この問題を日本古代国家の形成途上における政治史の課題として位置づけたのは小林行雄であった。具体的には、伝世鏡論[注 4]同笵鏡[注 5]論を展開した。この両論に疑問を表明したのは後藤守一原田大六森浩一、伝世鏡論に疑問や同笵鏡の分有関係の解釈について斎藤忠、系統的・理論的に批判した内藤晃、鏡の賜与だけをもって大和政権と地方首長との政治関係の成立を考察するのは困難とする西嶋定生などがいた[16]
所在地・数

ここでは、日本における周知の古墳の数について解説する。周知の古墳は「周知の埋蔵文化財包蔵地」の代表的な一つであり、未調査・未認定のものが加わったり破壊されて消滅することによって数が変動する。

周知の古墳の数(都道府県別) - 2001年度(平成13年度)末付け、文化庁発表[17]

第1位 兵庫県(16,577基)、第2位 千葉県(13,112基)、第3位 鳥取県(13,094基)、第4位 福岡県(11,311基)、第5位 京都府(11,310基)。全国総計 161,560基。


周知の古墳の数(都道府県別) - 2017年度(平成29年度)末付け、文化庁、2018年(平成30年)5月21日発表[18]

第1位 兵庫県(17,647基)、第2位 鳥取県(12,546基)、第3位 京都府(11,556基)、第4位 岡山県(11,038基)、第5位 千葉県(10,494基)。

都道府県別で最も数が多いのは兵庫県であり、この順位が変動する可能性は目下のところ低い。しかし2位以下は大きな変動を見せている。また、北海道青森県沖縄県には消滅したものも含めて1基も存在しないとする研究者がいる[19]一方で、それらの地域にも古墳の存在を認める研究者もいる(※『日本の古墳一覧』は後者説に基づく)。
形状.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}古墳のコンピュータグラフィックと外観写真左は現況の3DCG仲ツ山古墳(5世紀造営。


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