この項目では、秋田県秋田市の神社について説明しています。秋田県大仙市の神社については「古四王神社 (秋田県大仙市)」をご覧ください。
古四王神社
所在地秋田県秋田市寺内児桜一丁目55-5
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度44分10.55秒 東経140度04分59.42秒 / 北緯39.7362639度 東経140.0831722度 / 39.7362639; 140.0831722 (古四王神社)
古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社である。 社伝では、崇神天皇の時代、四道将軍大彦命が蝦夷を平定するため北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀り、次いで斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、自らの祖である大彦命を合祀し、越王神社(古四王神社)として創建したとされている。「齶田浦神」の名は日本書紀に見え、一説では蝦夷が信仰した地主神または海洋神と推定し、「齶田」を「秋田」の古名とする。当神社は延喜式神名帳には記載がないが、『日本三代実録卷第十』貞観7年2月27日(865年3月28日)条に「出羽国正六位上城輪神。高泉神並従五位下」との記述があり、このうち「高泉神」について菅江真澄は古四王神社のことであると書いている。高泉神である明確な証拠は他に存在しないが、新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北地方の各地に胡四王
歴史
同地は移転後の出羽柵(後に秋田城)の跡地に近く、城の守りとして創建されたと見られる四天王寺と習合し、中世を通じて古四王大権現として崇敬され、安東氏の寄進も受けている。江戸時代に入り、佐竹氏が秋田地方に入部した後も社領を寄進され、最終的には60石となった。この頃より近隣住民からは、単なる北方鎮護の武神としてではなく、豊作や眼病に霊験灼かと広く崇敬されている。なお、1818年(文政元年)刊行の曲亭馬琴の随筆「玄同放言」中にも、古四王社の挿絵がある。[1]
近代社格制度の下で最初は郷社に指定されたが、1873年(明治6年)1月にいったん取り消され、同年10月に再指定された。1876年(明治9年)2月24日に県社へ昇格。1882年(明治15年)には国幣小社に列せられ、以降秋田県内の神社では最も高い社格となった。 大彦命、武甕槌命 〈〉は関連事項 バス
祭神
境内外社
田村神社(住吉神社・今木神社を合祀)
岩戸神社
神明社
年表
崇神天皇時代:大彦命、武甕槌神を齶田浦神として奉祀(伝説)
658年(斉明天皇4年):阿倍比羅夫、齶田浦神に大彦命を合祀して古四王神社創建(伝説)
733年(天平5年):〈出羽柵を移転し秋田城と改称〉
この頃、城内に四天王寺創建、神仏習合により四天王を祀る
1602年(慶長7年):〈佐竹義宣、秋田入封。〉
1868年(明治元年)3月:〈神仏分離令〉
1871年(明治4年)5月14日:〈社格制度制定〉
1876年(明治9年):県社に列せられる
1882年(明治15年)4月29日:国幣小社に列せられる
交通
秋田中央交通:秋田駅から将軍野線または寺内経由土崎線で寺内地域センター前または護国神社前下車。
その他
仏教の影響からか、近年まで氏子は、肉、牛乳、卵を飲食しない風習を持っていた。
神仏習合により、聖護院修験道の管轄となっていたためか、1868年(明治元年)の神仏分離令により仏教と分離したあとも、神社の紋は輪宝を用いている。
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