古典派音楽
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古典派音楽(こてんはおんがく)は、クラシック音楽の歴史において、18世紀中ごろから19世紀はじめにかけての音楽様式をさす用語[1]。現代においてはハイドンモーツァルトベートーヴェンを中心とするウィーン古典派が代表的な存在とされている[1]
用語

西洋文化・芸術に対して用いられる「古典」という語は、英語でいうクラシック (classic) の訳語であり、「階級」を表すラテン語「class(クラス)」の派生語 classicus(「市民の6つの階級の最上級」の意)から、もとは「一流・最高水準」の意味であった[2]古代ギリシャ・ローマの優れた著作を指す言葉として古くから使われており、ルネサンスの古典復興の革新運動の中で、古代ギリシャ・ローマの人間中心の見方・考え方を〈規範とすべき第一級の傑作〉という意味で〈classic〉と呼んだことからはじまった[3]

古代ギリシャ・ローマの芸術を規範とし、調和や普遍性をめざす芸術運動である古典主義は、17世紀ごろから文学や美術でおこりはじめた[4]。音楽における古典派は、直接的に古典主義運動の影響を受けたわけでも古典を復興しようという意識があったわけでもなく[4]、ほぼ同時代のドイツ文学におけるゲーテを中心とした古典主義との類比から名づけられたが[1]、論理的で調和がとれた形式が確立した点は共通している[4]
概説

この時代のヨーロッパの社会は、絶対王政に象徴される封建制から近代民主主義へと移行する激動の時期にあたる[4]。古典派の初期には、音楽家たちはバロック時代と同様に王侯貴族にめしかかえられ、彼らのために作曲し演奏するのが一般的であった[4]。しかし、市民階級の台頭に伴って、一般市民に音楽を教えたり、楽譜を販売したり、演奏会を開催したりして、定職を持たずフリーの音楽家として生計をたてることも可能となった[4]

理性を重視する啓蒙時代を背景に[5]楽曲の均斉感と合理的な展開が重視され、ソナタ形式が発展した。17世紀に成立していた機能和声と調性による機能和声的調性は18世紀には中心的語法となり、主調と近親調の間での転調がもたらす緊張-弛緩という調関係は楽曲構成の基本に置かれるようになったが[6]、1本の主旋律と充足した和声というホモフォニーによる作曲が主流となったことと、アマチュア演奏家が増えて即興能力が全体に減退したことにより、通奏低音は廃された[7]。この時代の代表的な楽種として、上述のソナタ形式を含む交響曲協奏曲ピアノソナタ弦楽四重奏曲などが盛んに作られた[1]

古典派音楽の盛期はバロック音楽ロマン派音楽の間に位置しているが、実際には古典派音楽の始まりはバロック音楽の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派音楽の勃興と並行している。古典派の潮流は1730年頃にフランスのギャラント様式から始まるが[5]、バロック音楽を代表するヨハン・ゼバスティアン・バッハゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはまだ存命、活動中であった[5]。また、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの死(1827年)をもって古典派の終わりとする考えもあるが[5]、ロマン派とされるフランツ・シューベルトカール・マリア・フォン・ヴェーバーもほぼ同じ頃に死去している[5]

古典派音楽の時代区分については諸説あるが、次のように分類する例がある[8]

前古典派、ギャラント様式[注釈 1](1730年頃 - 1760年)

初期古典派[注釈 2]、多感様式[注釈 3](1760年 - 1780年)

盛期古典派[注釈 4](1780年 - 1827年)

前古典派
前古典派

前古典派は、バロック後期と、ハイドン・モーツァルトに代表される、いわゆる「古典派」の間に位置し、そのどちらとも重なる18世紀中葉の音楽活動の総括的な呼称[9]ギャラント様式多感様式・ベルリン楽派(北ドイツ楽派)・マンハイム楽派グルックのオペラなど、ウィーン古典派を準備する歴史的位置にある様式・楽派・作曲家があり、これらが前古典派に含まれる[10]

ここでは、ギャラント様式の誕生を出発点として、場合によっては一般的にはバロックと見なされる作曲家も含め、ウィーン古典派に至る流れの描写を試みる。概説にある区分で言えば、「前古典派、ギャラント様式」と「初期古典派、多感様式」にまたがった時期である。
時代背景

ヨーロッパ各国の宮廷では、17世紀中葉以降フランス趣味が大流行し、それぞれの宮廷の建築・庭園・衣装・髪型・かつらの形態・所作と娯楽などを変化させていった[11]。各国では15世紀後半から16世紀末まではイタリア趣味が流行し、それが失われたわけではなかったが、フランスはルイ14世以来模範的な宮廷とパリという模範的都市を備えており、科学・文芸・哲学においてヨーロッパ精神のエリート的な存在となっていた[12]ヴェルサイユ宮殿を模した建造物が各地に造営され[注釈 5]、そこでは人々はフランス語を話し、フランス風の衣装をまとい、フランスの作家・パリからの書簡・「文芸通信」を読み、哲学者や芸術家や料理人や洋服屋をフランスから招いた[12]

宮廷文化は基本的にスペクタクルの文化であり、学問や文芸の「文字の文化」とは長い間対立関係にあったが、17世紀末から18世紀初頭にかけて、サロンアカデミーという並行した活動のおかげで対立が解消され始めた[13]。これらの組織では、宮廷人が学者と会い、科学と考証の文化が視覚的・文学的な文化と共存することができた[13]。そこから辞書や百科事典、業績を理解させるための演説、学問の要約と抜粋を掲載する定期刊行物の流行が生まれ、啓蒙的な短編作品がこれを補足した[13]。こうして誕生したエリート文化は、18世紀に開花し、フリーメイソンと結びついてヨーロッパ中に広がり、1820年代まで存続した[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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