古典派経済学
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

新古典派経済学」とは異なります。

古典派経済学(こてんはけいざいがく、classical political economy)とは、労働価値説を理論的基調とする経済学の総称である[1]。18世紀後半からスミスマルサスリカードミルといったイギリス経済学者によって発展されたため、イギリス古典派経済学とも呼ばれる。経済学史上初の主流派経済学であったが、1870年代に誕生した新古典派経済学によって論駁され、主流派の座から退いた[1]マルクス経済学は古典派経済学を継承しており、マルクスも古典派経済学者に分類されることがある[2][3]
名称

ジョン・メイナード・ケインズによれば、古典派の用語を初めて用いたのは、カール・マルクスであるという。マルクスは、1859年に出版された『経済学批判』において、古典派経済学による商品の分析について次のように記した。商品を二重の形態の労働に分析すること、使用価値を現実的労働または合目的的な生産的活動に交換価値を労働時間または同等な社会的労働に分析することは、イギリスではウィリアム・ペティに、フランスではボアギユベールに始まり、イギリスではリカードに、フランスではシスモンディに終わる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的最終成果である。[4]

ケインズは、「古典派経済学」という用語にひとつの混乱をもたらした。『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、新古典派とみなされるマーシャルやピグーを含めて、その理論を「古典派理論」と呼んだからである[5]。現在では、この用法は一般に使われないが、ときにケインズの意味で「古典派」「古典派理論」と呼ぶ人がいるので注意を要する。ケインズは、古典派理論の本質はセイ法則を前提とするところにあり、『一般理論』はそれを覆すものであるとした[6]

イギリス系の経済学者に加えて、マルクスを古典派に数えることもある。ヒルファディングは『金融資本論』の序文でマルクスにおいて古典派経済学は「その最高の表現をみいだす」と書いた[2]。また、シュムペーターの『経済学史』はマルクスをリカード派として扱っている[3]
経済学における古典派の位置

古典派経済学以前には(金銀の)国際収支論を展開したジェラルド・ド・マリネス、エドワード・ミッセルデン、トーマス・マンなどに代表される重商主義の経済学が存在した。

古典派経済学の中心的経済学者は、アダム・スミス(1723-1790)とデヴィッド・リカード(1772-1823)であるが、トマス・ロバート・マルサスジョン・スチュアート・ミルをも考慮すべきである[7]

古典派経済学は、一般にリカードにおいて頂点に立ったと考えられている[8]シュンペーターは、リカードに比較的低い評価を与えているが、「明確な結果を出す方法」という点において、リカードとケインズは「その精神において兄弟である」というほめ方をしている[9]

リカードの経済学は、リカードの死後、さまざまな批判にさらされた。1830年代には、リカードの厳格な支持者はいなくなったとまで言われている[10]ジョン・スチュアート・ミルは、リカードの忠実な継承者を自認したが、シュンペーターは、実質的にはミルはリカードからかなり遠ざかっていると評価している[10]。マルクスも同様の評価を下している[11]塩沢由典は、ミルがリカードの生産費価値説からより旧い需要供給の法則に回帰した契機が国際価値論構築の困難にあったと指摘している[12]

古典派経済学は、イギリス古典学派と呼ばれることもある。主としてイギリスにおいて展開された経済学であるからである。しかし、リカードとほぼ同時代にのフランスにはジャン=バティスト・セイジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディがいて、イギリス古典派とはやや系統のことなる経済学を展開していたことを忘れてはならない。また、重商主義の経済学者と古典派経済学者の間に、フランソワ・ケネーやジェームズ・ステュアートなどもいる。

1870年代前半に、従来の経済学の伝統を一新する動きが英仏独の3つの言語圏でほぼ同時的に発生した。イギリスのウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、フランスからスイスに移ったレオン・ワルラス、オーストリアのカール・メンガーらが数学的手法を駆使して分析を行なう経済学を創始したからである。それぞれが限界概念を用いたことから、この動きを限界革命と呼ばれる。ワルラスの経済学はローザンヌ学派に、メンガーの経済学はオーストリア学派に引き継がれ発展したが、ジェヴォンズは、比較的若くして事故死したこともあり、ジェヴォンズとはやや考え方の異なるアルフレツド・マーシャルがイギリス新古典派の集大成者となり、ケンブリッジ学派が成立した[13]。アメリカで発展したジェヴォンスやエッジワースなどによるアメリカ経済学やクヌート・ヴィクセルのスウェーデン学派を含める場合も新古典派に含められる。なお、狭義にはケンブリッジ学派のみを新古典派とする場合もある。

古典派批判から新古典派経済学が生まれたと同じように、マルクス経済学も、この時代の古典派経済学への批判から生まれた[14]ケインズ経済学は古典派・新古典派に共通する考えを刷新するものと考えられている。
古典派の経済思想
労働価値説

1770年後半から1870年代前半の古典派経済学の基本の一つに労働価値説という考え方があった[15][14]。より根源的な価値の源は人間の労働であるという思想が基にあった。この考え方はアダム・スミスから始まりリカードやマルサスに至るまで古典派経済学者の基礎となる考えであり続けた。

また労働価値説は、投下労働価値説と支配労働価値説の2種類があった[14]。投下労働価値説は、商品の価値が、その生産に投入された労働量によって決まるという説であり、支配労働価値説は、商品の価値が、その商品で購買あるいは交換できる他の商品の労働量によって決定されるという説である。

18世紀までの主流の考えであった重商主義において、国家の富とは蓄積された財(ストック)にあると考えたが、アダム・スミスは富とは「生活の必需品と便益品」つまり消費財にあり、年々消費される「フロー」であると位置付けた[16]。またこの富は、農地や資本設備に投下された労働によって生み出されると考えた。これが労働価値説、あるいは投下労働価値説にあたる。またスミスは、商品の価値はその商品で購買あるいは交換できる他の商品の労働量に等しいという支配労働価値という考え方も示している。
価値の分解

そしてアダム・スミスは、国富は労働者、地主、資本家の間で、賃金、地代、利潤という形でそれぞれに分配されると考え、「価値というものが賃金、地代、利潤の3つに分解できる」という考え方に至った[17]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef