古代末期のキリスト教(こだいまっきのキリストきょう)では、「初期キリスト教」の展開以後の3世紀から7世紀にかけての古代末期[* 1]のキリスト教とローマ帝国、およびゲルマン諸国家との関係について概説する。この時代には、ローマ帝国後期の「3世紀の危機」と軍人皇帝時代をへて、皇帝コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認された。さらにグラティアヌス帝とテオドシウス帝によってキリスト教は国教となった。また、ドナトゥス派やアリウス派などの活動によって東西教会やアフリカ教会が分裂した。ゲルマン系民族が力を強めて476年に西ローマ帝国が滅亡し、7世紀にはイスラムが東ローマ帝国を脅かした。ゲルマン系民族にもキリスト教は浸透していった。800年にはフランク王国のカール大帝がローマ教皇から「ローマ皇帝」称号を戴冠されるに及んで、地中海世界は、東ローマ帝国・フランク王国を中心とした西ヨーロッパ・イスラムの三大勢力によってに三分された[4]。
ここでは、カールの戴冠までを中心に、ビザンツ帝国、イスラムやスラヴ人の台頭までを概説し、7世紀以降の西ヨーロッパ中世におけるキリスト教と国家については、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」で述べる。 ネルウァ=アントニヌス朝最後の皇帝コンモドゥスが暗殺されると、ペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌス、セプティミウス・セウェルスら諸侯が抗争し、193年にセプティミウス・セウェルスが史上初のアフリカ属州出身の皇帝となり、セウェルス朝がはじまった[5]。セウェルスの息子カラカラ帝は共同皇帝であった弟のゲタを粛清し、217年に殺害された。プラエトリアニ(近衛隊)長のマクリヌスが皇帝になる。しかし、シリアにいたセウェルス家の外戚バッシアヌス家の反乱でマクリヌス側が敗北すると、バッシアヌス家のヘリオガバルスが218年に皇帝になる。ヘリオガバルスはシリアの太陽神を信仰し、ローマのエラガバリウム神殿の主神とした。222年ヘリオガバルスは暗殺され、従兄弟のアレクサンデル・セウェルスが皇帝となる。 セウェルス朝は軍事独裁、軍国主義の側面が強く、統制経済の傾向も強かったが、235年にセウェルス・アレクサンデル帝が軍に暗殺されセウェルス朝が断絶した[5]。セウェルス・アレクサンデル帝は、自室にギリシア神話・ローマ神話のアポローン、オルフェウス以外に、ユダヤ教・キリスト教の始祖アブラハムとイエス・キリストの像も置いており、ローマ伝統の宗教とユダヤ・キリスト教のいずれをも崇敬していた[5]。 当時のキリスト教内部では、ローマ司教ゼフィリヌス(在位:199年 - 217年)の時、サベッリウスとクレメネスらが父・子・聖霊の三位格を自立した存在と解する三位一体論に対し、これらが唯一神の様態の三変化したものであると考える様態論を主張し、ローマ司教ヒッポリュトスもこれを支持した[6]。しかしローマ司教カリストゥス(在位:217年 - 222年)はサベリウス主義を異端として締め出し、ヒッポリュトスとポンティアヌスはサルデーニャに流された[6]。
3世紀のローマ帝国とキリスト教
セウェルス朝 (193-235)
サベリウス主義の異端認定「サベリウス主義」を参照