サイハド語
話される国 イエメン
言語系統アフロ・アジア語族
セム語派
中央セム語
サイハド語
言語コード
ISO 639-3?
'"`UNIQ--templatestyles-00000002-QINU`"'Linguist List
サイハド語 (サイハドご、Sayhadic) は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する言語群。古代南アラビア語 (Old South Arabian, OSA)、碑文南アラビア語 (Epigraphic South Arabian, ESA) とも呼ばれる。現代の南アラビア諸語とは別系統である。
サイハドとは、中世アラブの地理学者が現在のイエメンにある砂漠(ラムラト・アル=サバタイン(英語版))につけた名前である[1]。
現代の北西イエメンで話されるラジフ語は、サイハド語の生き残りとされる[2]。 古代南アラビア語の4つの主要言語は、サバ語、ミナ語、カタバン語 、ハドラマウト語である。当初、この4つの言語はすべて単一の古代南アラビア語の諸方言であると考えられていたが、これらは実際には独立の言語をなしていたことを20世紀なかばに Beeston が証明した[3]。今日では古代南アラビア語の4つの主要言語は独立とみなすことが受けいれられているが、これらはいくつかの形態論的な革新を共有しており、明らかに言語学的に密接に関係し共通の祖先から派生している。4つの言語すべてに保持されている特徴でもっとも重要なもののひとつは接尾定冠詞 -(h)n である[4]。しかしながらこれらの言語間には重大な差異も存在する。 古代南アラビア語は元来は(部分的には地理にもとづいて)アラビア語、現代南アラビア語、エチオピア・セム語群と並んで南セム語に分類されていたが、近年ではこれをアラビア語、ウガリト語、アラム語、カナン諸語/ヘブライ語と並んで中央セム語群に入れ、現代南アラビア語とエチオピア語をべつの語群に残す、新たな分類法が用いられるようになった。この新たな分類法がもとづいているのは、アラビア語、古代南アラビア語ならびに北西セム語(ウガリト語、アラム語、カナン諸語)が、未完了形が *yVqtVl-u の形をとる(他のグループでは *yVqattVl)という、動詞体系における革新を共有しているという事実である。Nebes は少なくともサバ語は yVqtVl の形の未完了形をもっていたことを示している。 古代南アラビア語はいくつかの言語を含んでいる。以下の4つが書記されて保存されているものである(年代はいわゆる ‘Long Chronology’ に従う[5])。これらの言語名はエラトステネスによるもので、自称は不明である[6]。これらに加えて、少なくともラジフ語 (Jabal Razih) が今日まで生き残っている。
分類問題
言語
サバ語 (Sabaean):サバ王国の言語であり、のちにヒムヤル王国のそれともなった。エチオピアのダアマト王国
古サバ語 (Old Sabaean):紀元前8世紀から紀元前2世紀
中期サバ語 (Middle Sabaean) 紀元前1世紀から紀元後4世紀(もっともよく資料が残っている言語)[8]
アミール語 (Amiritic)/ハラム語 (?aramitic):マイーン
中央サバ語 (Central Sabaean):サバ王国の中心地から出ている碑文の言語
南サバ語 (South Sabaean):ラドマン (Radman) およびヒムヤルの碑文の言語
「偽サバ語」(“Pseudo-Sabaean”):ナジュラーン (Najr?n)、ハラム (?aram)、カルヤ・ファーウ (Qaryat al-F?w) に住むアラブ諸部族の文章語
後期サバ語 (Late Sabaean):紀元後5世紀から6世紀
ミナ語 (Minaean, Madhabian):アル=ジャウフ (al-Jawf) の都市国家(例外としてイエメンのハラム)の、なかんずくマイーンの国家における言語で、紀元前8世紀から紀元前2世紀まで記録されている。碑文はマイーンの外部でも、デダン (Dedan) およびマダーイン・サーリフ (Mad?'in ??li?) の商業植民地、エジプト、デロス島でも見つかっている。約500の碑文
カタバン語 (Qatab?nian):カタバーン王国の言語で、紀元前5世紀から2世紀まで記録されており、2,000点足らずの碑文がある
アウサーン語 (Aws?nian):アウサーン王国の言語で、記録は非常に少ない(約25、紀元前8世紀/紀元前1世紀からおおむね紀元後1世紀)。カタバン語から区別できない
その他、ラドマーンの部族の言語のような変種がある
ハドラマウト語 (Hadramautic, ?a?ramitic):ハドラマウト王国の言語で、ギリシャのデロス島からも碑文が出ている。紀元前5世紀から紀元後4世紀まで、約1,000の碑文。
書記記録などで使われるが、4世紀の終わりになるとユダヤ教やキリスト教の浸透によって古代南アラビア語の碑文は減少し、ヘブライ語・アラム語・ギリシア語の影響が強まる。この言語で書かれた最後の碑文は、ヒジュラの60年あまり前にあたる紀元後554年(または559年)のものである[10][11]。
古代南アラビア語は、フェニキア文字と同系の子音的アブジャドである古代南アラビア文字で書かれた。フェニキア文字より7文字多い29文字からなっている。残存している碑文の数は、古代世界のその他の地域、たとえばパレスチナと比べて非常に多く、1万の碑文が保存されていると言われている[12]。サバ語の語彙集は約2,500語を含む。
書記記録の分類
石に書かれた碑文
奉納碑文:しばしば奉献に至る事件の歴史的説明を保存している
建物に書かれた碑文:とりわけ建設を依頼した人物の名前と歴史的状況を与えている
法律と法制定
条約議定書と証書
贖罪と懺悔のために書かれた碑文
岩に書かれた落書き
文学的なテキスト:もしこのような文章がかつて多数存在していたとするならば、それらはほとんど完全に失われてしまっている
木の円柱に書かれた碑文(中サバ語とハドラマウト語のみ)。これまでに約1,000点があるが、ごく少数しか公刊されておらず、大部分はワーディー(=涸れ谷)マザーブ (W?d? Madh?b) のナシャーン (Nashsh?n) からのものである[13]
私的な文章
契約と注文書
日常的なものに書かれた碑文
石に書かれた碑文は非常に形式的で正確な語法と表現を示しているのに対して、木に筆記体で書かれた碑文の文体はそれよりずっと非形式的である。 ヨーロッパでは古代南アラビアからの碑文は18世紀以来すでに知られていたが、ヴィルヘルム・ゲセニウス (Wilhelm Gesenius, 1786-1842) と彼の指導学生エミル・レーディガー (Emil Rodiger) が1841/42年にはじめて互いに独立に古代南アラビア文字の解読に大部分成功した。その後19世紀の後半にジョゼフ・アレヴィ (Joseph Halevy) とエドゥアルト・グラーゼル
研究・教育の歴史
ドイツ語圏では古代南アラビア語はセム語研究の枠組みのなかで教えられており、古代南アラビア語のための独立した大学のポストは存在しない。