古代ローマの公衆浴場
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「ローマの公衆浴場」はこの項目へ転送されています。ヴァルナについては「ローマの公衆浴場 (ヴァルナ)」をご覧ください。
バース(イングランド)の古代ローマの公衆浴場。周囲の柱の土台部分より上層の建物は後世の再現である。ドイツのヴァイセンブルクにあった古代ローマ駐屯地の公衆浴場を測域センサ技術を使って再現した図 (CG)。現在、同地の発掘遺構は博物館として公開されている。

古代ローマ公衆浴場(こだいローマのこうしゅうよくじょう)は、バルネア (balnea)、テルマエ (thermae) と呼ばれており、多くの都市に少なくとも1つの公衆浴場が存在した。そこは社会生活の中心の1つになっていた。

古代ローマ人にとって入浴は非常に重要だった。彼らは1日のうち数時間をそこで過ごし、時には一日中いることもあった。裕福なローマ人が1人か複数人の奴隷を伴ってやってきた。料金を支払った後、裸になり、熱い床から足を守るためにサンダルだけを履いた。奴隷は主人のタオルを運び、飲み物を取ってくるなどした。入浴前には運動をする。例えば、ランニング、軽いウェイトリフティング、レスリング、水泳などである。運動後、奴隷が主人の身体にオイルを塗り、(木製または骨製の)肌かき器で汚れと共にオイルを落とした。

ヴィッラドムスにも私的な浴室があり、それらも「テルマエ」と呼ばれた。これらは付近を流れる川や用水路から水を供給していた。浴室の設計については、ウィトルウィウスが『建築について』で論じている。
用語リビアのサブラタにある浴場の標識。"SALVUM LAVISSE(入浴益体)" (入浴は体に良い)と書いてある。

thermae、balneae、balineae、balneum、balineum はいずれも「浴室」や「浴場」と訳されるが、初期の古代ローマ人はこれらを明確に区別して使っていた。

balneum または balineum はギリシア語の βαλανε?ον (balaneion) に由来し[1]、第一義的には個人の住居に備え付けられた風呂や浴槽を表し (Cic. Ad Alt. ii. 3)、それがある部屋は balnearium と呼ばれた[2]セネカ[3]、Liternumのヴィッラにあったスキピオの浴室を表すのに指小語 balneolum を使い、彼の時代の贅沢さに比べて共和政時代の浴室が簡素であったことを表した。セネカが記したような一部屋の浴室から、さらに贅沢さが増して複数の部屋になってくると、複数形の balnea または balinea で呼ばれるようになった。キケロは弟のクィントゥスのヴィッラにあった浴室を balnearia と呼んだ[4]ウァロによれば[5]、balneae や balineae には単数形がなく、公衆浴場を意味した。しかし、このような語法の正確さはその後の作家、特に詩人には守られず、六歩格詩では公衆浴場の意味で balnea が使われることが珍しくなく、balneae が使われることはなかった。プリニウスは同じ文の中で、公衆浴場の意味で中性複数形の balnea を使い、個人宅の浴室の意味で balneum を使っている[6]

thermae はギリシア語の形容詞 θερμ?? (thermos)(熱い)に由来し、元々は温泉や熱いお湯をはった浴槽を意味する。これが共和政ローマの簡素な balneae に対して、ローマ帝国において大型化した公衆浴場を指すようになった。そこには、ギリシアのギュムナシオンにあるような設備や建物がそろっていて、同時に浴場としての設備を備えていた[7]。しかし、文献ではこれらを区別していないことが多い。例えば、皇帝クラウディウスが自由民とした Claudius Etruscus が建設した浴場を、Statiusは balnea と呼び[8]マルティアリスは Etrusci thermulae と呼んだ[9]。マルティアリスの警句 subice balneum thermis では[10]、これらの語は建物全体を指しているのではなく、同じ建物内の別の部屋を指している。
建物の配置ポンペイの公衆浴場の平面図

公衆浴場は基本となる3種類の部屋、カルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)を中心として建設されていた。場合によっては、蒸気風呂のスダトリウムやラコニクムがあり、ラコニクムの方が乾燥していて現代のサウナ風呂に近い。

ここでは、右図のポンペイフォルムに隣接して建っていた浴場の平面図を参照しながら解説する[11]

建物全体は男性用と女性用それぞれの一連の浴室から構成されている。通りからの入り口は6カ所あり、そのうちの1つ(b)が女性用のやや狭い部分の専用入り口になっている。他の5カ所は男性用の部分の入り口で、そのうち2つ(c と c2)は作業員用の炉に通じる入り口で、残る3つ (a3, a2, a) は浴室部分への入り口となっている。
アトリウム

主要な入り口 a は表通りには面しておらず、建物の周囲の路地から入るようになっていて、3段の階段を上ると左手にトイレ(ラトリナ)などがある小さな部屋 (x) がある。さらに進むと屋根に覆われたポルチコ (g, g) が屋根のない中庭であるアトリウム (A) を三方から取り囲んでいる場所に出る。この空間が浴場の玄関ホール(ヴェスティビュール、vestibulum balnearum[12])であり、召使いはここで待つ。

アトリウムは若者のための運動場であり、入浴者の散歩道になっていたと思われる。この中庭には、入浴料のクォドランス(青銅硬貨)を徴収する風呂の管理者 (balneator) もいた。ポルチコの奥にある f の部屋は、この管理者用の事務室とも考えられるが、上流階級の人々が知人が浴場の奥から戻ってくるのを待つ待合所として使ったエクセドラまたはオエクスと考えるのが最も妥当である。この中庭には、劇場の公演の広告、剣闘士のショーなどの告知が壁に描かれており、遺跡にもそれが残っている。入り口脇には石の座席 (scholae) がある。
脱衣室とフリギダリウム脱衣室(apodyterium)フリギダリウム

通路 (e) を通って B の脱衣室 (apodyterium) に行き、衣服をここで脱いだ。脱衣室で入浴者を手伝うのが capsarii と呼ばれる奴隷で、手癖が悪いというのが当時の共通認識だった[13]。脱衣室は広々とした部屋で、壁に沿って石の座席 (h, h) があった。遺跡の壁には穴が見られ、入浴者の衣服をかけておく釘がそこにあったとされている。この部屋はガラス窓で採光しており、6つのドアがあった。そのうちの1つがテピダリウム (D) に続いており、別のドアがフリギダリウム (C) に続いている。フリギダリウムには水風呂があり、これを loutron、natatio、natatorium、piscina、baptisterium、puteus などと呼んだ。"natatio" および "natatorium" という呼称はそれらが水風呂だっただけでなく、水泳用プールでもあったことを示している。この部屋の風呂は白い大理石製で、周囲も2段の大理石の階段になっていた。
テピダリウムテピダリウム

暖かい風呂で汗を流したいと思った入浴者は、フリギダリウムからテピダリウム (D) へと向かう。ポンペイの浴場では、テピダリウムにお湯をはった浴槽はないが、熱い空気で適度に熱せられており、その先にあるカルダリウムの熱さと外気温との急激な変化を防止する役目があった。ポンペイの浴場では、カルダリウムに入る入浴者がこのテピダリウムを脱衣室として使うこともあった。壁面は小さく仕切られていて、そこで休憩したり、脱いだ衣服を置くことができた。仕切りは壁から張り出したアトラステラモーンの像であり、その上のコーニスを支えていた。

遺跡からは3つの青銅製ベンチが見つかっていて、隣の部屋のハイポコーストの熱で温められる仕組みになっていた。また発掘により木炭の灰が青銅製の火鉢から発見されている。


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