古代ギリシアの彫刻
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パルテノン神殿フリーズ彫刻、紀元前440年頃。

古代ギリシアの彫刻(こだいギリシアのちょうこく、英:Ancient Greek sculpture)では、古代ギリシア時代に制作された彫刻について説明する。

現代の学芸員は、文献の乏しい暗黒時代からヘレニズム時代まで、古代ギリシア彫刻を幾つかの区分に分けて識別している。全ての時代で、大量のテラコッタ製の人物像と金属や他の素材で作られた少数の彫刻が存在した。

ギリシア人は、芸術の追究にとって人間の姿形が最も重要な主題であると、ごく早期に決定した[1]。彼らの神々が人間の姿形になっていることを見ても、芸術において聖なるものと世俗的なものの区別はほとんどなく、ヒトの肉体は世俗的かつ神聖なものだった。アポローンまたはヘラクレスの男性裸体像は、その年の古代オリンピックのボクシング優勝者のもので、表現方法にわずかな違いが見られる程度である。彫像は元々は単体だったが、ヘレニズム時代では集団のものが支配的な形となった。レリーフ彫刻は、「高い」位置のため彼らがほぼ自立しているようで、やはり重要視された。
素材天然の大理石

古典期(およそ紀元前5世紀と4世紀)まで、記念碑的な彫刻のほぼ全てが大理石または青銅(ブロンズ)でできていた。5世紀初頭までに主要作品にとってブロンズ鋳造品が好まれる素材になった。ローマ市場向けに作られた大理石の複製品だけが知られている彫刻の多くは、もともとブロンズ製だったとされる。様々な素材からなる少数作品は、それらの多くが貴重であり、非常に大量生産のテラコッタの人物像と一緒に作られた。シチリア島やイタリア南部を除き、古代ギリシアの領土には大理石の豊富な品揃えがあり、ペンテリコ山パロス島の大理石が現在のマケドニア共和国プリレプからのと共に最高評価とされた。青銅の鉱石も比較的入手しやすかった[2]。大理石は、ほとんどがパルテノン神殿と他の主要なギリシアの建物周辺で発見された。赤絵式キュリクスに見られる、彫刻家の作業場を訪れるアテーナー(紀元前480年)。州立古代美術博物館(英語版)

大理石と青銅はどちらも成形しやすく、耐久性がある。私たちはほとんど知らないがアクロリス(英語版)[注釈 1]以外にも、ほとんどの古代文化において木に彫刻の伝統は疑いようもない。青銅には常に重要な解体価値があるため、オリジナルの青銅はほとんど現存していない、とはいえ近年の海洋考古学トロール網引き上げではアルテミシオンのブロンズ像(英語版)やリアーチェのブロンズ像(英語版)など幾つかの素晴らしい発見があり、これらが現代理解を大きく広げている。ローマ時代(紀元前30年-紀元後450年)の多くのコピーは、元々はブロンズ製だった作品の大理石版である。アルカイック期には普通の石灰岩が使われ、しかしその後は建築彫刻や装飾のためだけに使われた(現在のイタリア地域を除く)。たまに漆喰スタッコが髪の毛だけに使用されていた[3]

神殿の偶像や豪華な作品に使われるクリセラファンティーネ(英語版)彫刻には金箔が使用され、姿形の部分(顔や手)は象牙で、恐らくは宝石や他の素材もあっただろうが、さほど一般的ではなく断片だけが現存している。多くの彫像には、取り付けるための穴から見て宝石が据えられ、武器または異なる材質の別の物体を握っていた[4]「勝利した若者の像(The Victorious Youth)」(紀元前310年頃)。野ざらしでの保存だったコントラポストポーズのブロンズ像。
着色今日では白いギリシア彫刻も、元々は塗装されていた[5][6][7] 。色を復元したトロイアの弓兵の像。

古代ギリシア彫刻は元々明るい色で塗られていたが、元の色素が劣化したため今日では白い状態で現れる[5][6][7] 。着色された彫刻への言及は、エウリピデス著『ヘレネ』をはじめ古典文献全体を通して見つかっている[5][6]。一部の良好な保存状態の彫像には、元々の彩色の痕跡が残っており、考古学者はそれらを元々あったように再現することが可能である[5][6][7]

19世紀初頭までに、古代ギリシア遺跡の体系的な発掘は、表面の多彩な痕跡を残した彫刻を数多くもたらし、その一部は今でも見ることができる。それにもかかわらず、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンをはじめ影響力を持つ美術史家たちがギリシア彫刻は着色されていたとの見解に強硬に反対し、塗装された彫像の支持者たちを変人だとして追放してしまった。そして彼らの(着色されていたとの)見解は、1世紀以上にわたってほぼ完全に却下されてしまった。大英博物館にあるエルギン・マーブルでは色の痕跡を研磨して真っ白にしてしまう行為まで行われ、1939年に彫刻のスキャンダルとしてBBCに報じられた[8]

20世紀後半から21世紀初頭になってようやく、ドイツの考古学者ヴィンツェンツ・ブリンクマン(英語版)によって発表されたことで、古代ギリシア彫刻の着色が確定された事実になった。高輝度照明、紫外線、特殊カメラ、石膏の鋳型、特定の粉末鉱石を使って、ブリンクマンは建物構造や彫像を含むパルテノン神殿全体が、かつて塗装されていたことを証明した。彼は元の塗料の色素を分析して、その組成も突き止めた。

ブリンクマンは着色したギリシア彫刻のレプリカを幾つか作って、世界各地を巡った。また、その中にはギリシア・ローマ彫刻以外の作品のレプリカもあり、彼はギリシア・ローマ美術が例外なのではなく、彫刻に着色する作業が普遍的であることを示して見せた[9]。この展覧会を主催した博物館には、ミュンヘングリプトテク美術館ヴァチカン美術館アテネ国立考古学博物館などがある。この着色像たちは、2007年秋にハーバード大学でも公開された[10]

ブリンクマンは「古代芸術の他の側面は、神殿の多彩な絵画や彫刻ほど理解されてはいない」と述べ、表向きはギリシア彫刻に触発されたとする未塗装の現代彫刻は「全く新しいもの」だと語った[11]
ギリシア彫刻の発展
幾何学文様期

一般に、ギリシア彫刻の最初期の具現は木彫りの偶像だと考えられており、パウサニアスにより最初は「xoana」と記述された[12][注釈 2]。そうした木像はほとんど現存しておらず、恐らく何百年間にわたって崇拝対象だったのだろうが、その記述も曖昧である。収集されることになったギリシア彫刻の最初の欠片は、恐らくレフカンディ(英語版)のケンタウロス(Lefkandi Centaur)で、これはエヴィア島で発見された紀元前約920年とされるテラコッタの彫像である。この彫像はパーツに分解され、2つの墓に切り分けて埋葬されていた。このケンタウルスは膝の上に意図的な印があり、この彫像は多分ヘラクレスの矢で負傷して膝立ちとなっているケイローンの姿を描いたものではないか、と研究者たちは主張した[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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