古代エジプト建築
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保存状態のよい エドフ神殿はエジプト建築と建築彫刻の一例である。

古代エジプト建築(こだいエジプトけんちく)は、古代エジプトにおける建築である。歴史上最も他の文明に影響を与えた文明である古代エジプトは、ナイル川の川岸に多様な建築物と巨大な記念碑を極めて多数建造した。それらの中で最も巨大で有名なものはギザのピラミッドギザのスフィンクスである。
特徴

乾燥気候のエジプトでは森林が発達せず、木材は不足気味だった[1]。このため、古代エジプトで主に用いられていた建材は 日干しレンガの2つであり、石は主として石灰岩が使用されたが、砂岩花崗岩も相当な量が用いられていた[2]エジプト古王国前期から、石は主にや神殿(英語版)専用の建材であり、一方で煉瓦は王宮や要塞、神殿境内や都市を囲う壁、あるいは神殿複合体の中にある補助的な建物を作るために用いられていた。ピラミッドの中核部分は現地で切り出された石、煉瓦、砂利から成っていた。ピラミッドを覆う化粧石は遠隔地から運ばねばならず、主に白い石灰岩はトゥーラから、赤花崗岩は上エジプトから持ち込まれた。エジプト文明に特有な建築物の柱頭の形に関するスケッチ

古代エジプトにおいて、家は日干しレンガで造られていた。 ナイル川から採取した泥を型に流し込み、適度な硬さになるまで熱い太陽の光に晒して乾かした後、建材に用いた。

多くのエジプト文明の都市はナイル谷の耕作地域にあり、1000年にわたって徐々に隆起してきた川床として恒常的に洪水の被害を受け、あるいは建物の素材であった土レンガが農民に肥料として用いられたために現存していない。それ以外の都市は新たな建物が古代のものの上に築かれているために現在は見ることができない。しかし幸運なことに、エジプトの暑く乾燥した気候のおかげで一部の土レンガの遺構は保存されている。ディール・エル=メディナの集落やカフン[3]にあるエジプト中王国の街、ブヘン[4]とミルギッサの要塞がその例として挙げられる。また、多数の神殿や墓所がナイル川の洪水の影響を受けない高台に建てられていたり、石で作られていたために現在も残っている。

以上の記述からも示唆されるように、我々の古代エジプト建築に対する理解は、主に宗教的な遺跡[5][要ページ番号] に基づいているものである。厚く傾斜がありほとんど開口部を持たない壁によって特徴づけられる大規模な建造物は、土壁において十分な堅牢性を得るために用いられていた建築法に影響を受けた可能性がある。同様にして、彫刻が施され、平たく設計された石造りの建物の表面装飾は土壁装飾から着想を得たものかもしれない。アーチ構造はエジプト第4王朝の時に発達、普及したが、あらゆる記念碑的建築物にはまぐさ石構造が用いられている。まぐさ石構造とは、外部の壁と狭い間隔に設置された支柱によって支えられた巨大な石のブロックでできた平らな屋根のことである。

建物内はと同様に、外壁あるいは内壁はヒエログリフや図示された色とりどりのフレスコ画や彫刻で一杯であった。[6] エジプトの装飾におけるモチーフの多くは、スカラベや神聖な甲虫、光球ハゲワシのようにシンボル化されたものである。 その他の一般的なモチーフの例として挙げられるのはヤシの葉やパピルススイレンのつぼみや花である。[7] ヒエログリフ は歴史的な出来事や呪文を記録するため、または装飾的な目的のために彫られた。加えて、これらのフレスコ画や彫刻のおかげで我々は古代エジプト人の生活、身分、戦争、信仰について知ることができる。このことは特に近年古代エジプトの貴人の墓所を発掘する際に顕著に実感される。

古代エジプトの神殿は至点分点といった各出来事の瞬間に正確な計測を必要とする天文学的に重要な出来事に基づいて整然と配置されていた。最も重要な神殿における計測は儀式としてファラオ自身が行った。[8]
ギザのピラミッド群詳細は「メンフィスとその墓地遺跡」を参照

ギザの共同墓地はエジプトの首都カイロの郊外にあるギザ台地の上にある。この古代の遺構の一群はカイロの中心街から20kmほど南西のナイル川のほとりにあるギザの旧市街から8kmほど砂漠に入ったところにある。この古代エジプト共同墓地ギザの大ピラミッドカフラー王のピラミッド、比較的小さめなメンカウラー王のピラミッド、そしてそれらに付随する、王妃のピラミッドとして知られるたくさんの建築物、スフィンクスで構成されている。[9] ギザのピラミッド

エジプト第4王朝期に建てられたピラミッドは王への信仰と権威を強調するためのものであった。それらのピラミッドは墓所、そしてファラオの名前を人々の記憶に永遠にとどめておくために建造された。[10][要ページ番号] その大きさと簡素なデザインはエジプトのデザインと大規模なものに対する工学の技術の高さを示している。[10][要ページ番号] 紀元前2580年に完成したと言われるギザの大ピラミッドはピラミッドの中で最も古く最も巨大なものであるが、世界の七不思議の中で唯一現存するものでもある。[11]カフラー王のピラミッドはカフラー王の治世末期である紀元前2532年頃にできたとされており、[12] カフラー王は先祖のピラミッドの隣に自分のピラミッドを建てることに執念を燃やした。彼のピラミッドは彼の父のものほどには高くなかったものの、ピラミッドの基礎を約10m父のものより高い場所に作ったことにより彼のピラミッドの方が高いような印象を与えることができた。[12]ピラミッドを建てるにあたって、カフラーは墓所の守護者として大きなスフィンクスを造らせた。ファラオを想起させる人間の顔にライオンの体というデザインは神性を表す象徴として500年後のギリシャ国家で見られるものである。[10][要ページ番号] スフィンクスは砂岩の巨大なブロックを彫って造られたもので、高さは約20mある。[10][要ページ番号] メンカウラー王のピラミッドは紀元前2490年前後に建てられたものでその高さは3大ピラミッドの中では最も小さい約65mである。[13]

大衆文化の影響で人々はピラミッドの内部は盗掘対策のために多数のトンネルがはりめぐらされており、かなり複雑な構造をしていると信じているが、その認識は実際の事実とは異なる。ピラミッド内の通路は極めて単純なもので、多くは石室に直接通じている。ピラミッドはあまりにも大きかったため、内部に巨万の財宝が眠っているだろうと盗掘者たちを惹きつけてしまい、いくつかのピラミッドは封印されてから比較的早い時期に盗掘の被害を受けている。[10][要ページ番号] 時にはピラミッド内に追加のトンネルがあることもあるが、これは建設工事者がどの程度の距離まで地殻を掘って墓所を造ることができるかを把握するためのものである。また、盗掘者たちのせいで、クフ王、カフラー王、メンカウラー王以後の王たちは知られぬまま王家の谷に葬られていると信じられていることがあるが、これはもちろん誤りである。ピラミッド建設は小規模になっただけでその後の多くの王朝で行われていた。最終的にピラミッド建設は盗掘ではなく経済的な原因により止められた。

ピラミッド建設は奴隷たちの労働によってできたと広く考えられている。一部の学者は建設を支えた労働者の多くは農閑期の農夫たちであったと考えている。すなわち、ピラミッド建設とは公共事業だったという考え方である。[10][要ページ番号] いずれにせよ、ピラミッド建設は奴隷労働なしでは成り立たなかった貴族の生活様式を象徴するものである。


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