古今和歌集
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「古今集」はこの項目へ転送されています。薬師丸ひろ子のアルバムについては「古今集 (薬師丸ひろ子のアルバム)」をご覧ください。
古今和歌集仮名序」(巻子本)仮名序の冒頭。「古今倭歌集序」と最初に書くが、通常の『古今和歌集』の伝本にはこの題はない。12世紀ごろの書写で国宝に指定されている。大倉集古館蔵。

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の歌集。全二十巻[1]醍醐天皇の命により編纂され、905年延喜5年)に奏上され、最初の勅撰和歌集として位置づけられる[注 1]。後世の勅撰和歌集の範となり、国風文化歌論を中心とした日本文学に影響を残した。

仮名序(後述)と全二十巻が揃った最古の写本は、平安時代後期にあたる元永3年(1120年)の奥書がある上下巻である(所謂「元永本古今和歌集」)[1]

略称を『古今集』(こきんしゅう)といい、更に「古今」と呼ばれることもある(古今伝授など)。

日本の国歌君が代』歌詞の源流は、『古今和歌集』に収められた読み人知らずの賀歌「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(343番)である[2]
成立

『古今和歌集』は二つの序文を持つ。仮名で書かれた仮名序と、漢文で書かれた真名序である[注 2]。仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に選ばれなかった古き時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された[注 3]。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜13年(914年)または延喜14年ごろとの説もある[3]

撰者は紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑の4人である。序文では友則が筆頭に挙げられているが、仮名序の署名が貫之であること[注 4]、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と忠岑の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。

その成立過程については、以下のように仮名序・真名序の双方に記載されている。

延喜五年四月十八日に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑らにおほせられて、万葉集に入らぬ古き歌、みづからのをも奉らしめたまひてなむ(中略)すべて千歌、二十巻、名づけて古今和歌集といふ--仮名序

爰に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑等に詔して、各家集、并に古来の旧歌を献ぜしめ、続万葉集と曰ふ。是に於いて、重ねて詔有り、奉る所の歌を部類して、勒して二十巻となし、名づけて古今和歌集と曰ふ。(中略)時に延喜五年、歳は乙丑に次る四月十五日、臣貫之謹みて序す--真名序

これらをみると編集は古歌の収集と分類・部立の2段階で、延喜5年に奏覧(完成)としている。しかし上でも述べたように、『古今和歌集』には延喜5年以後に詠まれた歌が含まれているので、この「延喜五年四月」を奉勅の時期と考え、奏覧はもっと後だとする見方もある。ただし、序に奏覧の日が書かれず奉勅の日付のみを記すとは考えにくいことから、完成後に増補改訂されたとするのが一般的である。なお、両序の日付が異なる理由は不明である。また真名序に出てくる『続万葉集』という書名は、仮名序を含め他書には見えない。

貫之の私家集である『貫之集』巻第十には、ことなつは いかがききけん ほととぎす こよひばかりは あらじとぞおもふ[4]

という和歌があるが、その詞書[4]には、

延喜の御時、やまとうたしれる人々、いまむかしのうた、たてまつらしめたまひて、承香殿のひんがしなる所にて、えらばしめたまふ。始めの日、夜ふくるまでとかくいふあひだに、御前の桜の木に時鳥(ほととぎす)のなくを、四月の六日の夜なれば、めづらしがらせ給ふて、めし出し給ひてよませ給ふに奉る

とあり、これが『古今和歌集』撰集のことであるとされる。その開始日は「四月の六日」とあるが、これが延喜5年のことだとすれば、わずか十日ほどで撰集が終わるとは考えられず、実際には一年または数年を要したとみられる。
構成

全二十巻で、藤原定家による写本(定家本)では歌数は合計1111首。前述のように巻頭に仮名序、巻末に真名序が付き、内容はおおよそ同じである。仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望の作とされる。伝本によってはまず巻頭に真名序、次に仮名序があってその次に本文が始まるものがある。ただし真名序を持たない伝本も多い。この両序の関係について、真名序が正式なもので仮名序は後代の偽作とする説(山田孝雄)や、真名序より仮名序のほうが前に書かれたとする説(久曾神昇)、真名序が先でそれを参考に仮名序が書かれ、仮名序が正式採用されたとする説もある。

久曾神昇は、「延喜六年二月乃至同七年正月の間に、貫之は仮名序を執筆したやうである。(中略)真名序は紀淑望が依頼を受けて執筆したもので、漢詩文に関する先行文献を参照してはゐるが、既に成つてゐた精選本仮名序をも参照し、殊に六歌仙評、撰集事情を述べた条などには、その痕跡が著しい」[5]として、仮名序が真名序に先行すると主張している。

歌の中には長歌5首と旋頭歌4首が含まれるが、残りはすべて短歌である。二十巻からなる内容は以下の通りである(定家本による)。「高野切」巻第一春歌上の冒頭。五島美術館蔵。

(仮名序)

巻第一 春歌 上

巻第二 春歌 下

巻第三 夏歌

巻第四 秋歌 上

巻第五 秋歌 下

巻第六 冬歌

巻第七 賀歌

巻第八 離別歌

巻第九 羈旅歌

巻第十 物名

巻第十一 恋歌 一

巻第十二 恋歌 二

巻第十三 恋歌 三

巻第十四 恋歌 四

巻第十五 恋歌 五

巻第十六 哀傷歌

巻第十七 雑歌 上

巻第十八 雑歌 下

巻第十九 雑体(長歌、旋頭歌、誹諧歌)

巻第二十 大歌所御歌、神遊びの歌、東歌

(墨滅歌)

(真名序)

巻末の「墨滅歌」とは定家本のみにあるもので、藤原定家が「家々称証本之本乍書入墨滅哥 今別書之」(家々で『古今和歌集』の証本〈拠るべき重要な伝本〉とする本に記していながら、墨で印をして本来無いものとしている和歌があり、今それらを別にまとめて書き記す)と前置きしてまとめた11首の和歌のことである。なお、定家本をはじめとする古い伝本では通常、巻第十までを上巻、それ以降の巻を下巻として分け、上下2冊の冊子本としている。『古今和歌集』で確立された分類は和歌の分類の規範となり、歌会、歌論などにおいて使われただけでなく、後世の勅撰和歌集に形を変えながら継承され、また連歌におけるさらに細分化された句の分類の基礎ともなった。

巻十九冒頭に「短歌」という標目で長歌が収録されていることは古来謎とされてきたが、2000年に小松英雄が新説を提示している[6]
歌人

古今集所載歌のうち4割ほどが読人知らずの歌であり、また撰者4人の歌が2割以上を占める。

以下、入集歌数順に代表的歌人を挙げる。対象は墨滅歌を含む1111首。巻第十五・恋歌五所収の803番の歌は兼芸の歌と見做す[注 5]

紀貫之:入集102首。巻第六巻軸。撰者の一人。

凡河内躬恒:入集60首。巻第二第三第五巻軸。撰者の一人。

紀友則:入集46首。巻第八第十二巻軸。撰者の一人。

壬生忠岑:入集36首。撰者の一人。

素性:入集36首。巻第九巻軸。遍昭の子。撰者以外での最多入集。

在原業平:入集30首。巻第十三第十五巻頭。六歌仙の一人。

伊勢:入集22首。巻第一第十三第十八巻軸。宇多天皇中宮温子に仕える。

藤原興風:入集17首。巻第四巻第十巻頭、並びに古今集1100首の掉尾を飾る巻第二十巻軸。

小野小町:入集17首。巻第十二巻頭。六歌仙の一人。

遍昭:入集18首。巻第四巻軸。六歌仙の一人。

清原深養父:入集17首。

在原元方:入集14首。古今集の劈頭を飾る巻第一巻頭。業平孫、棟梁子。

享受と評価の変遷

『古今和歌集』は「勅命により国家の事業として和歌集を編纂する」という伝統を確立した作品でもあり、八代集二十一代集の第一に数えられ、平安時代中期以降の国風文化確立にも大きく寄与した。


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