古い同盟
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古い同盟(ふるいどうめい、スコットランド語: Auld Alliance, フランス語: Vieille Alliance)は、スコットランド王国フランス王国の間の同盟。スコットランド語の"auld"は「古い」ことを意味するが、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王に即位する以前には同盟への好意的な言及として使われた。仏蘇同盟(ふつそどうめい、スコットランド語: Franco-Scottish Alliance)とも。

同盟は1295年に締結されてから1560年のエディンバラ条約(英語版)まで続き、スコットランド、フランス、そしてイングランド王国の関係において重要な役割を演じた。1295年から1560年までのフランス王とスコットランド王はルイ11世を除いて全て同盟の更新に同意した[1][2]。14世紀末には同盟の更新はイングランドと戦争中であるかどうかにかかわらずなされるようになった[3]

同盟は1295年にジョン・ベイリャルとフランス王フィリップ4世が反エドワード1世対策として条約を締結したときにはじまった。条約により、両国のうち片方がイングランドに攻撃される場合、もう片方はイングランド領を侵攻することが定められた。これは例えば1513年のフロドゥンの戦い(英語版)で現実となった。同盟はスコットランド独立戦争百年戦争カンブレー同盟戦争、乱暴な求愛(英語版)などフランス、スコットランドとイングランドの戦争に重大な影響を与えた。
歴史

1168年にフランスを訪れたスコットランド王ウィリアム1世はフランス王ルイ7世と対イングランド同盟を結んだ。この同盟は口約束だったが、後に両国が正式な同盟を結ぶ元になった[4]

1290年、スコットランド女王で7歳のマーガレットの死が引き起こしたスコットランドの王家断絶は貪欲なイングランド王エドワード1世にとってスコットランドへの介入の好機だった。1295年までにエドワード1世がスコットランドの征服を企んでいたことが明らかになり、スコットランドの暫定政府である十二人会(Council of Twelve)は手当たり次第に同盟国を探した。フランス王フィリップ4世1293年にイングランドのガスコーニュ領有を無効としたため英仏間はすぐにでも戦争が勃発しそうであり、フランス・スコットランド間の同盟は明らかな選択だった。1295年10月、スコットランドの使節とフィリップ4世はパリ条約の締結に同意した[5][6]。両国の正式な同盟は1295年の条約が最初だが、1168年の口約束にまで遡って『古い同盟』と呼んだ[4]

これ以降におこった同盟の更新と同じく、条約はスコットランドよりフランスのほうに有利だった。というのも、フランスはガスコーニュにおけるイングランドとの紛争を続けるだけでよく、一方のスコットランドは自腹でイングランドとの戦争を始めなければならなかった。しかし、ヨーロッパの辺境にあり、貧しかったスコットランドにとってヨーロッパの大国との同盟という象徴的な意味が大きく、たとえ象徴の意味が実質より大きかったとしてもスコットランドにとって同盟の利益は大きかった[7]

しかし条約は短期間にはスコットランドをエドワード1世から守ることができず、結局エドワード1世は1296年に旋風の勢いでスコットランドに侵攻、スコットランド独立の芽を摘んだ。さらに、1299年にはイングランドとフランスの間の紛争が終結し、「永久平和と友好」の条約が結ばれたことでエドワード1世は全軍をスコットランドへの攻撃に使うことができた。結局、スコットランドが生き残ったことはフランスとの古い同盟のおかげではなく、ロバート・ブルースの軍事的識見とエドワード2世の失策によるものだった。

1326年、ロバート・ブルースはコルベイユ条約で同盟を更新した。当時両国ともイングランドとの紛争を抱えておらず、同盟の更新は予防的なものだった。しかし、1330年以降にエドワード3世がスコットランド征服を完成しようとし、フランスでの権力も再建しようとしたため、フランス・スコットランド同盟がはじめて緊急性を帯びてきた。

1346年、フランス軍はクレシーの戦いでエドワード3世に大敗を喫した。その2か月後、スコットランド王デイヴィッド2世がイングランド北部への侵攻中にネヴィルズ・クロスの戦いで敗れて捕らえられ、侵攻が失敗に終わった。デイヴィッド2世が国を11年間も空けたことはスコットランド国内での権力闘争が激化することにつながった。結局デイヴィッド2世は負けを認め、エドワード3世との間で和約に署名し、1357年に釈放されたが、彼はスコットランドへ戻った後、イングランドのスコットランドにおける利益を増やすことに残りの治世のほとんどを使い果たした[7]

1371年、スコットランドはグラスゴー司教(英語版)とギャロウェイ卿(英語版)を使節としてフランスに派遣、ヴァンセンヌ=エディンバラ条約(英語版)で再び同盟を更新した。条約は6月30日にシャルル5世によりヴァンセンヌ城で署名され、続いて10月28日にロバート2世によりエディンバラ城で署名された[8]。親仏派のロバート2世が王位を継承したことは即座に同盟の更新に繋がったが、同盟のスコットランドへの利益は半々だった。1385年にはフランス・スコットランド連合軍によるイングランド侵攻が計画され、フランス軍の小部隊をスコットランドに派遣することもはじめて計画されたが、フランスの侵攻は現実にならず、計画倒れに終わった。両国の関係は悪化し、フランスの年代記作家ジャン・フロワサールは「フランス王がイングランドとの2、3年間の和約を締結し、続いてスコットランドまで行進してそれを潰すことを願った」という[9]

しかし、両国が接近したのは必要性があってのことであり、同盟が15世紀でも継続したのはイングランドのランカスター朝国王による侵略があってこそだった。1418年、フランスがヘンリー5世に降伏する寸前になったことで、ドーファンのシャルルがスコットランドに助けを求めた。1419年から1424年まで、スコットランド軍1万5千がフランスへ派遣された[10][11]

フランス軍とスコットランド軍は共闘して1421年のボージェの戦いでイングランド軍に勝利した。百年戦争の転機の1つだったこともあり、この戦闘は重要だった。フランスとスコットランドの勝利は長く続かず、1424年のヴェルヌイユの戦いでは逆に大敗を喫したが、スコットランド軍の参戦でフランスは休息の時間を得、イングランドの完勝からフランスは救われた[7]

さらに、1429年にはスコットランド軍がジャンヌ・ダルクに加勢して有名なオルレアン包囲戦を戦った。スコットランド人兵士はギャルド・エコッセ(英語版)としてフランス王の近衛兵を務めた。スコットランドからフランスへ派遣された遠征軍のうち、フランスに残ることを選ぶ者も多く、士官の一部は土地や称号を授与され、15世紀や16世紀にはフランス人と同化していった[1]

15世紀の残りを通して、同盟は正式には4回更新された[7]百年戦争がフランスの勝利に終わり、イングランドが薔薇戦争という内戦の渦中に巻き込まれたことで、同盟の必要性はほとんどなくなった。古い同盟は参戦の道を選び、ランカスター家を支持する見返りとしてジャージー島ベリック=アポン=ツイードを奪取した。ヨーク家が勝利したことでこれらの領地は奪い返されたが、同盟はランカスター家への支持を続けてヨーク家に対する反乱を起こさせ、1485年のボズワースの戦いでランカスター家最後の男子ヘンリー7世を支持するほとだった。16世紀の始まり、ヘンリー7世が娘のマーガレット・テューダーをスコットランド王ジェームズ4世に、メアリー・テューダーをフランス王ルイ12世にそれぞれ嫁がせて平和を示したことで、フランス・スコットランド同盟は完全に終わったように見えた。


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