叡福寺
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金堂
所在地大阪府南河内郡太子町太子2146
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度31分7.05秒 東経135度38分23.14秒 / 北緯34.5186250度 東経135.6397611度 / 34.5186250; 135.6397611 (叡福寺)座標: 北緯34度31分7.05秒 東経135度38分23.14秒 / 北緯34.5186250度 東経135.6397611度 / 34.5186250; 135.6397611 (叡福寺)
山号磯長山
宗旨真言宗
宗派太子宗
寺格本山
本尊如意輪観音菩薩
創建年伝・神亀元年(724年
開基伝・聖武天皇
別称上之太子、上の太子
札所等新西国三十三箇所客番
仏塔古寺十八尊第2番
河内西国霊場第21番
聖徳太子霊跡第6番
西山国師遺跡霊場第15番
河内飛鳥古寺霊場第15番
神仏霊場巡拝の道第57番(大阪第16番)
文化財聖霊殿、多宝塔、絹本著色文殊渡海図ほか(重要文化財
金堂、鐘楼、石造阿弥陀如来坐像ほか(府指定有形文化財
境内(府指定史跡
法人番号8120105004703
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叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町太子にある太子宗の本山寺院山号は磯長山(しながさん)。本尊如意輪観音新西国三十三箇所客番札所。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。開基は聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。聖徳太子建立三太子の一つで、野中寺羽曳野市)の「中の太子」、大聖勝軍寺八尾市)の「下の太子」に対して、「上の太子」と呼ばれている。また、大阪みどりの百選に選定されている[1]
歴史
草創

この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる[2][3]。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇用明天皇推古天皇孝徳天皇の陵もある。

寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を自らの墓所とするように定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)に聖武天皇の発願[4]で東院・西院の2つの七堂伽藍が整備されて東院は転法輪寺、西院は叡福寺と称したという[5]。しかし、このことは正史には見えず史実かどうか定かではない[注 1]。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見方もある。この頃には当時は御廟寺と呼ばれていた。

叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝している。承安年間(1171年 - 1175年)には高倉天皇の勅により、平清盛の命で子の平重盛が堂塔の修理を行っている[6]。また聖徳太子は仏教の興隆に尽力したため、日本仏教の開祖として賛仰された。空海良忍親鸞日蓮一遍など新仏教の開祖となった僧たちが、太子の墓所があるこの寺に参籠したことが知られている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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