叡尊
[Wikipedia|▼Menu]

叡尊
1201年 - 1290年9月29日

諡号興正菩薩
生地大和国
宗派真言律宗
弟子忍性信空など
著作『感身学正記』
西大寺奥ノ院
テンプレートを表示

叡尊(えいそん、えいぞん、旧字体:叡尊󠄁、建仁元年〈1201年〉 - 正応3年8月25日1290年9月29日〉)は、鎌倉時代中期に活動したで、真言律宗を興した。は思円(しえん、旧字体:思圓)。諡号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧・慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市内)の生まれ。鎌倉仏教を代表する一人で、廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られる。
年譜

建保5年(ユリウス暦換算:以下同様:1217年) - 醍醐寺阿闍梨・叡賢に師事して出家

元仁元年(1224年) - 高野山に入り真言密教を学ぶ。

嘉禎元年(1235年) - 戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となり、『四分律行事鈔』を学ぶ。

嘉禎2年(1236年) - 覚盛、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒[* 1]。地頭の侵奪により西大寺が荒廃したために海龍王寺に移る。

暦仁元年(1238年) - 持戒のあり方をめぐり海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻る。西大寺の復興に努め、結界・布薩する。

仁治元年(1240年) - 西大寺に入寺した忍性文殊菩薩信仰に大きな影響を受ける。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)を行い、近傍の非人に斎戒を授ける。

仁治2年(1241年) - 三輪宿で文殊供養を行う。

仁治3年(1242年) - 和爾宿・北山宿で文殊供養を行う。額安寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。奈良の獄屋の囚人に斎戒沐浴させる。

寛元元年(1243年) - 額安寺西宿・三輪宿で文殊供養を行う。

寛元2年(1244年) - 河内諸宿で文殊供養を行い、非人に施粥する。

寛元3年(1245年) - 家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)を受ける。法華寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。

寛元4年(1246年) - 道明寺で授戒を行う。

寛元5年/宝治元年(1247年) - 仏師・善円に念持仏・愛染明王坐像を造らせる。

建長元年(1249年) - 仏師・善慶に京都清凉寺釈迦如来像の模刻を造らせ、西大寺四王堂に安置する。

建長2年(1250年) - 絵師・堯尊に文殊菩薩画像・十六羅漢・十六尊者など21幅を描かせる。

建長6年(1254年) - 西琳寺で授戒をおこなう。『聖徳太子講式』執筆。太子講を始める(以後、毎年恒例となる)。

建長7年(1255年) - 円仁が唐の五台山から招来した『上宮太子勝鬘経疏義私鈔』を四天王寺で筆写し、法隆寺に奉納する。

正嘉2年(1258年) - 絵師・堯尊に金剛界曼荼羅を描かせる。

文応元年(1260年) - 絵師・堯尊に胎蔵界曼荼羅を描かせる。

弘長元年(1261年) - 浄住寺授戒と『四分律行事鈔』の講義を行う。北条実時の使者が訪れ関東への下向を懇請する[* 2]

弘長2年(1262年) - 太子講を諸所で行う。2月より関東へ下向し、新清凉寺(釈迦堂)に逗留。忍性、頼玄らの応援を得て授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。北条実時・北条時頼に拝謁し授戒する[* 3]。7月に西大寺へ帰る。弟子の性海による『関東往還記』がその記録である。

文永元年(1264年) - 光明真言を導入し、密教化を進める。

文永3年(1266年) - 河内真福寺で非人救済を行う。

文永5年(1268年) - 般若寺再建のために文殊菩薩像(仏師善慶善春が造像)の開眼供養を行う。異国の難[* 4]を払うため四天王寺で勤行をする。

文永6年(1269年) - 般若寺落慶供養を行い、周辺で非人・癩者を救済する。紀伊の金剛宝寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。

文永10年(1273年) - 蒙古襲来(元寇)に際して伊勢神宮に参籠し、大般若経を転読する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef