受領
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、地方官の呼称に関する日本史用語について記述しています。「受領」の語義については、ウィクショナリーの「受領」の項目をご覧ください。

受領(ずりょう)とは、国司四等官の筆頭者で(原則は国守)、令制国に赴任して行政責任を負う者を指す。

国司四等官は元来、共同責任を負ったが、平安時代の変革により筆頭者が責任・権限を負うこととなり、職名が受領と呼ばれることとなった。おおよそ四位五位どまりの下級貴族である諸大夫がこの任に当てられた。

令制国に着任した国司が前任者から引継手続きを受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した)[1]
概要

国司の筆頭者である守(かみ)及び権守(ごんのかみ)が受領を務めた。但し、上野国常陸国上総国の3か国については、次官の介(すけ)及び権介(ごんのすけ)が務めた(これらは親王が国守に任じられる親王任国であり任国に赴かなかったため)。

次席である介(受領である場合を除く)、三席の掾(じょう)、四席の目(さかん)は共同責任を負わず、任用(にんよう)と呼ばれた。

なお、任官されながら実際に任国に赴かず官職に伴う給付だけ受ける国司遥任と言う。
沿革

8世紀末?9世紀中期頃になると、気候寒冷化に起因する不作が続き、地方における調庸の未納、民衆の疲弊などが問題視され、従来の地方行政に動揺が生じる様になった。そのため、儒教的な見識(合理主義的精神・徳治主義的政治手腕)を持った官僚が国司として派遣され、地方政治の立て直しに努めた。これを良吏と称した。六国史には多くの良吏の治績が記されている反面、強引な改革が他の国衙の職員や郡司などの現地の有力者などとの対立を招いて失敗する事例もあり、更に成功した事例でも現実の事態に対処するために律令の規定を無視したり、反対者からの襲撃を避けるために私的武力として自己の従者を現地に連れ込んだりするケースもあった[2]

9世紀中期?10世紀頃になると、従来の律令制(編戸制・班田制など)による統治に限界が出始め、中央政府は租税収入を確保するため、社会の実情に即した国制改革を進めた。その改革は、地方官(国司)へ租税収取や軍事などの権限を大幅に委譲するというもので、国司は中央へ確実に租税を上納する代わりに、自由かつ強力に国内を支配する権利を得たのである(ただし、国司が請負って上納する租税額に規定額が存在したとする見方と規定額は名目上のみで実際には徴収された租税の中から不定額・不定期・不定品目で納入されていたとする見方がある[3])。

国司は、国内の国衙領公田)を名田へ再編成し、当時台頭していた富豪層へ名田の経営と租税徴収を請け負わせることで、租税を確実に収取するようになっていった。この租税収取システムが軌道に乗ると、国司は現地へ赴任する必要がなくなり、特に上位官である守の多くは遥任するようになった。すると、現地赴任する国司の筆頭者に、様々な責任やそれに伴う権限が集中するようになり、事実上の国衙行政の最高責任者となった。当時、国司交替の際に後任の国司が適正な事務引継を受けたことを証明する解由状という文書を前任の国司へ発給する定めとなっており、実際に現地で解由状を受領する国司を「受領」と言うようになった。これが「受領」という呼称の起源である。

寛平から延喜にかけて国司制度の改革を示す太政官符が次々と出されている[4]

(庸調・封物などの完納を示す)庸調惣返抄を受け取れない諸国官長(受領国司)の解由状は返却する(寛平8年6月28日付)。

任用(この場合は、公廨を受け取れる史生以上を含む)は、交替欠などに関係した場合を除いては原則として解由を与えられる(寛平8年9月5日付)。

(寛平8年9月5日付の補足にあたり)任用は自己の責によらない官物不足の補填のために公廨や私財を没収されることはなく、返抄の受領・公文勘会(およびそのために必要な補填)は全て長官(受領国司)の責任とする(寛平9年4月19日付)

(雑米などの完納を示す)雑米惣返抄の受領も長官(受領国司)の責任とする(寛平10年2月27日付)。

これによって庸調の徴収と中央への送付及び官物の管理、行政の監査の一切は受領国司の責任とされた。したがって任用国司は共同責任を負わなくなった(例えば不足の補填のために公廨が没収されるなどの処分)。その一方で、これまで国司四等官の筆頭以上の意味を持たなかった[注釈 1]受領国司に任国内統治の責任者としての権限が付与されることになった[7]

受領が強大な権限を得た一方で、補佐官である任用たちは権限を奪われ、受領の私的従者のように使役されるようになる。こうした状況に不満を募らせた任用の中には、現地の有力者である富豪層(田堵層)と結んで受領を襲撃する者も現れた。9世紀末から10世紀初頭にかけて紛争の火種となる任用たちの現地赴任は行われなくなり、受領のみが任国に赴任し、から伴った私的な側近を目代に任命し、また現地の有力富豪層を在庁官人に任命して国衙の実務に当たるようになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef