取次_(豊臣政権)
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取次(とりつぎ)は、本来は伝達元と伝達先の間に介在して情報等を相互に伝達する行為やその役割に当たる者を意味する(取次 (歴史学)参照)。こんにち、豊臣政権における「取次」が豊臣政権研究にとって不可欠の考察対象となっており(詳細後述)[1]、そのため本項では主に豊臣政権における取次について扱う。
「取次」の定義

戦国時代にも大名間の交渉に取次を置いて仲介させる慣習が広汎に存在していたが、1984年昭和59年)に山本博文が発表した論文「家康の『公儀』占拠への一視点-幕藩制成立期の「取次」の特質について」以降、豊臣政権の研究における権力構造やその移行を考察する上で取次の存在が注目されるようになり、豊臣政権研究にとって不可欠の考察対象となった[1]

本項で取り扱う取次は、豊臣秀吉の独裁色の強い豊臣政権が、他の大名に対する統合・統制をおこなう上で政権と大名の間に介在させた特定の人物および彼らによって担われた機構である。彼らはまた「申次」や「指南」とも呼ばれた[注釈 1]

山本によれば、豊臣秀吉はある特定の人物に「諸大名への命令伝達や個々の大名を服属させ後見する」ことを公的に認めた[2]。これが「取次」である。秀吉は、たとえば、東国における有力大名であった徳川家康上杉景勝、あるいは側近の浅野長政(当時は浅野長吉と称した)らを「取次」としながら、関東地方奥羽地方の諸大名に対し、一連の政策を進めていった。また、九州地方の大名に対する寺沢広高毛利勝信常陸国茨城県)の大名佐竹氏南九州島津氏に対する石田三成も同様に「取次」の役割を担当した。

豊臣政権は職制の制度化が進まないうちに崩壊したため、「取次」の概念も定まっておらず、それ自体が議論の対象となっている。山本は、その機能によって「取次」概念をとらえ、取次的働きをした特定の人物をも「取次」と称しているが、一方、史料上で「取次」・「指南」と表記される場合に限り「取次」として扱うべきであるとの津野倫明による批判もある[3]。それに対し、史料のうえで「取次」と表現されていても実態が豊臣政権における「取次」の概念とは異なり、戦国的な外交交渉を行う意味合いでの「取次」を指す場合があり、あるいは史料に現れても役割ではなく動詞としての「取り次ぐ」という意味で使われた場合もあるとの山本による再批判もあって[4]、注意を要する[注釈 2][注釈 3]
豊臣政権における「取次」の役割

豊臣政権において「取次」は、諸大名への命令伝達、統一過程での服属促進、豊臣政権下での政策指導、軍勢や普請の動員や指揮といった役割を果たし、政権からその働きを公的に認められ、期待された最高級のメンバーであった。その構成は統一過程においては大大名があたり、統一が達成されたのちは秀吉側近へと構成が変化していく傾向にある[2]。秀吉は、これら「取次」によって、ある特定人物と全国の諸大名との関係を親密にさせるいっぽうで、それぞれの大名を豊臣政権に取り込んでいった。

「取次」となる人物は単なる秀吉の意思伝達者ではなく、秀吉の発給した朱印状に対する奉書や副状(添状)に署名する権限などが与えられていた[4]。豊臣政権における「取次」は、秀吉朱印状など公的命令を補足しつつ、そのいっぽうでそれぞれの大名と秀吉個人の関係が円滑なものとなるよう期待されていた。「取次」は、豊臣政権の方針を大名に強制することもあったが、大名からしてみれば、直接秀吉に叱責されて改易などの処罰に付されるよりは仲介者からの意見を受け入れて行動や内政等を改めた方がはるかにダメージが少なかった[4]。この機構は、秀吉の立場からは、大名を服属させてみずからの軍役に編成することが容易にできるメリットがあった一方、大名の側からすれば、秀吉とのルートを保証する「命綱」ともなったのである[4][注釈 4]
「取次」と「指南」

「取次」となった人物は、豊臣政権の奉行人として大名の領国支配に干渉することがあり、場合によっては領国における大名権力の確立を支援することもあった。大名の立場から「指南」と称されることが多いのも、このような事情によっている[4][5]。「指南」とは今日でいう行政指導であり、それぞれの大名は織豊系城郭の建築技術や太閤検地の施行方法などを「取次」から伝え授けられることによって近世大名への変貌を遂げることができた場合がある[6][注釈 5]

秀吉の姻戚でもあった側近の浅野長政は、陸奥国の大名伊達政宗にとって「御指南」に相当するところから、政宗は文禄5年(1596年8月14日付の浅野長政宛書状で、万事について長政を頼み、その指示に対してはいかなる指示であってもしたがうつもりであった旨を書き送っている(『大日本古文書 伊達家文書之二』675号文書)[4][注釈 6]

しかし、同書状には、長政の「指南」には政宗の知行を自発的に秀吉に進上することまでを含んでおり、他の9か条の不満もあわせ掲げ、長政の「指南」には到底したがえないと結んでおり、彼に対する絶縁状となっている[4][注釈 7]。この書状の内容によって、取次行為が、大名側からは秀吉の内意を受けての行為であると認識されていたことがうかがわれる。したがって、取り次ぐ相手(「御指南」)の意に沿わない行動をとった場合、それはただちに秀吉の知るところとなるだろうという恐怖心を大名側がいだいていたことも充分に考えられる[4]。豊臣政権は、すべての事案が秀吉個人に収斂する体制となっており、「取次」にあたる人物が個々に大名を統制していたのである[5][注釈 8]

しかし、伊達政宗は、絶縁状の件によって秀吉から何ら処罰されていない。このことにより、「取次は制度ではなく慣習」であり、「取次という慣習の根底にあるものは知音関係」であるとの指摘もある[7][注釈 9]。この指摘に対しては異論もあるが、「取次」ないし「指南」は、必ずしも豊臣政権中枢の政治組織として充分に整備されたものではなく、あくまでも秀吉個人と大名とのあいだを円滑なものとするために設けられた機構であった。
「御取次之筋目」

小牧・長久手の戦いののち、秀吉・家康の講和が成立してから小田原征伐によって後北条氏が没落するまでの数年間(1580年代後半)、秀吉は上杉景勝に対し、家康と談合して「関東之儀」(「御取次の儀」)にあたるよう命じ、その上杉に対しては増田長盛と石田三成が景勝との取次にあたらせている。秀吉の旧来の朋友であった加賀国石川県金沢城前田利家北陸・奥羽・東国の諸大名との仲介にあたっており、さらに、これら大大名による取次のみならず、富田知信・津田盛月・和久宗定・施薬院全宗らも取次として活動した。

こうした「取次」をめぐる重層的で複雑な関係は、山本博文によれば、いまだ戦時色が強く、諸大名の旗幟の定まらない段階における「手筋としての取次」=「御取次之筋目」(外交交渉のルート)が複数存在していることの現れであった[4]。ここでの「取次」は、役割のうえでは戦国時代における交渉役と同じであり、その場合、交渉にあたる人物は交渉相手に献身することによって双方を良好な関係を築こうとすることも多かった[4]。しかし、北条氏滅亡によって東国が平定され、天下一統が達成されると常陸国・下野国栃木県)・安房国千葉県)の諸大名に対して秀吉は増田長盛を「取次」にあて[8]、特に佐竹氏に対しては長盛のほか石田三成をその任にあてるなど秀吉政権の奉行クラスに取次の任を担わせた。秀吉はやがて大名権力の内部に干渉して「指南」(指導)するなど、取次の役割と性質を変化させ、豊臣政権の公的な機構として運用した[注釈 10]


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