反軍演説
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斎藤隆夫

反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年昭和15年)2月2日帝国議会衆議院本会議において立憲民政党斎藤隆夫が行った演説日中戦争支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。この演説により、3月7日、斎藤は衆議院議員除名された[1]。この経緯は言論弾圧としても扱われる。なお、「支那事変処理を中心とした質問演説」や「支那事変処理に関する質問演説」を、一般的に「反軍演説」と称している。
経緯
演説まで

斎藤は1936年の「粛軍演説」で軍部の政治関与を批判するなど国民からの注目を浴びるも、その後警察や軍部からの監視や、さらに脅迫状などの攻撃も受けた。また「国家総動員法案に関する質問演説」において、国家総動員法の危険性を指摘するも、立憲政友会と立憲民政党の二大政党は斎藤の主張を無視し全会一致で成立。

その後過労から転倒して打撲し、脳梗塞の疑いで病床に着く。1937年に起きた日中戦争の長期化につれ、病床の斎藤の元へ日増しに「なぜ、斎藤は沈黙するのか」という類の問い合わせの手紙が増加し、国民の声を議会に届けるべく、「国家総動員法反対演説」から2年ぶりの登壇を決意。1939年11月18日原稿の起草に着手、演説の練習を繰り返す(#逸話参照)。

1940年1月14日阿部信行内閣が総辞職し、16日、ドイツに接近する軍部と異なり、親米派である米内光政内閣が成立した。その後召集された第75議会の衆議院本会議での、2月2日の議題「国務大臣の演説に対する質疑」における、立憲民政党所属の当時71歳、斎藤隆夫による1時間半に及ぶ午後3時からの「支那事変処理を中心とした質問演説」[2]である。久しぶりの斎藤の演説ということで、傍聴席は満員であった。

議会召集後、民政党院内主任総務俵孫一に質問の旨を通告、町田忠治民政党総裁はもとから斎藤の登壇に反対しており、事前に斎藤を抑えようとしていたが[3]、斎藤はこれを無視。

米内総理大臣、各閣僚の演説の後、民政党小川郷太郎の原稿朗読演説、立憲政友会中島派[注 1]東郷実の演説の後に斎藤が演壇に立った。
演説

斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである[4]

第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか

第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか

第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか

第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問

第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等

「演説中小会派より二、三の野次[注 2]が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記している[注 3]。そして、「しかし、議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた」と付け加えている。演説当日の具体的様子として斎藤は、「時局同志会や社民党[注 4]から私の演説は聖戦の目的を冒涜するものであるという意味の声明を発するようである」と記している。

このあと米内総理大臣、櫻内幸雄大蔵大臣柳川平助興亜院総務長官[注 5]が答弁に立ったが、斎藤には不満が残るものだった[3][5]。また、畑俊六陸軍大臣は答弁に立たなかった[3]

反軍演説直後から陸軍は斎藤の攻撃に走るのだが、畑俊六陸軍大臣や武藤章軍務局長の態度は資料によって大きく異なっている。

粟屋憲太郎『日本の政党』369、370頁では、武藤章は演説中から既に憤激の素振りを見せており、演説の直後からその内容に強い不満を表明し、政府に対して厳しい処置をとるよう迫った、と書かれている。一方、勝田龍夫『重臣たちの昭和史』では、演説直後、陸軍大臣の畑俊六は「なかなかうまいことを言うもんだな」と感心していたという。また政府委員として聞いていた武藤や鈴木貞一(興亜院政務部長)も「斎藤ならあれぐらいのことは言うだろう」と顔を見合わせて苦笑していた、と書かれている[6]

また、衆議院議長で、身内の民政党の小山松寿は斎藤の演説中に「聖戦ノ美名云々」「精神運動ニ於テ戦争ノ目的ヲ一人モ知ルモノナシ云々」のメモ[注 6]を2枚記し、衆議院書記官長[注 7]大木操に渡し、職権により、演説全体の3分の2程度、約1万字にも及ぶ、軍部批判にあたる箇所を削除させた。大木は抵抗したものの結局は小山に屈し、大量削除を「盲断」「私はこの時職を賭して戦うべきであった」とのち、日記で悔いている[8][注 8]

民政党幹部は、斎藤への攻撃が始まると慌て出し、陸軍へ工作する一方、斎藤の演説内容の速記録からの削除で事態を収拾しようとした[3]。斎藤は民政党の幹部と共に小山議長のもとを訪れ、「陸軍が演説内容に不満であるならなぜ畑俊六陸軍大臣は答弁に立って反論しなかったのか、発言を速記録から削除するというのなら小山衆議院議長はなぜ演説中に注意をしなかったのか」との正論を述べて不満を述べたが、民政党に迷惑をかけたくないとの理由から不承不承速記録からの発言の一部削除に同意した[9]。しかし、小山のとった策は演説内容の大量削除だった。

ただ、削除の手続きが遅れたため翌日の地方紙では一部で、斎藤の反軍演説の内容全てを掲載したところがあり[9]、反軍演説が各地に報道されることになった[10]。更に外電で配信され、交戦国の中華民国で大きく報道され、アメリカでも報道された[11]。ちなみにヨーロッパ各国でも反軍演説は報道されたが、第二次世界大戦が始まったばかりのため、大きく報じられなかったという[12]

実際のところ、斎藤の政府批判の内容自体は過激なものではなく、当時の一般国民が日常的に思っていた不満程度の内容でしかなかったのだが、公式の場で発言されることを政府や陸軍は嫌った[13]。特に海外に内容が広まることで支那事変の解決に悪影響が出ることを警戒した[14]。2月2日の反軍演説の直後から陸軍や時局同志会、社会大衆党が、斎藤の演説は「聖戦の目的を冒涜するもの」であると攻撃を始め、後には海軍もこれに加わった[15]

反軍演説に対し、一部議員からの批判はあったが[注 9]、国民からの批判はなく、逆に斎藤への感謝や激励の電報や手紙が多数送られた[16][注 10]
除名

民政党幹部は、軍部その他による斎藤への攻撃の手が緩まないのを見て、今度は斎藤を「自発的に辞任」させようとした[17]

民政党は、翌日の2月3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党勧告を出すことで事態収拾を図り、斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして、受諾。また、総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から、自発的に議員辞職をするよう促されたが、斎藤は断固拒否した[注 11]。2月3日の衆議院本会議は夜の9時になってようやく開かれたが、同日の本会議冒頭、小山松寿衆議院議長の権限で斎藤を懲罰委員会にかけることが決定された[19]

反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写する。政友会中島派、時局同志会、社民党[注 4]は懲罰賛成に結束し、政友会久原派[注 1]の多数は反対にみえる。


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