反米保守
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信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。(2007年4月)


中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2006年2月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2014年6月)


正確性に疑問が呈されています。(2010年10月)


反米保守(はんべいほしゅ)とは、反米の立場で、政治思想的には保守派に属する立場をいう。日本における右派、保守派の一潮流である。対義語は親米保守
概説

歴史的な定義は、江戸時代国学または、明治初期の『農本主義』や『アジア主義』(「興亜会」、「黒龍会」)、中江藤樹山田方谷熊沢蕃山らが研究に熱心だった神風連の乱の精神的支柱ともなった王陽明の『陽明学』、藤田東湖が確立した『水戸学』等の国粋主義を指す総称である。また、アジア主義に類する南進論北進論アジア・モンロー主義もこれに該当する。言論の世界では、とりわけ清国の文明を積極的に評価した陸羯南の「日本新聞社」あるいは『打倒英米論』を唱え続けた野依秀市の「帝都日日新聞」、政党では鳥尾小弥太が組織した保守党中正派(保守中正派)などがこれに当たる。昭和前期には、これまでのアジア主義とは異なる「東亜新秩序」など新しい思想が三木清らによって唱えられている。

1913年大正2年)に成立したカリフォルニア州外国人土地法により、「白閥打破」「亜細亜モンロー主義」「興亜論」を唱えた典型的なナショナリストである徳富蘇峰は、大東亜戦争終戦後に『敗戦学校・国史の鍵』を著し、その中で、日本は古来中国から巨大な影響を受け、質・量全てにおいて中国には敵わないと意識したときに負けじ魂から独自のものを生み出した。それが"神道"であり、中国に対する劣等感を日本の独自性への観念に転換した分水嶺は聖徳太子だった。聖徳太子は十七条の憲法を作ることによって日本の国体を明徴させ、中国との対等の交際を築こうとした。その自尊心を表現したのが『日本書紀』だった。 ? 『敗戦学校・国史の鍵』[1]

と述べ、日中の関係を「横綱(中国)と十両(日本)」と表現した。また、蘇峰は源頼朝を保守的政治家の典型例として捉えた。しかしながら、勝海舟北条氏を非常に高く評価しており、歴史家の内藤湖南大山柏奥羽越列藩同盟に同情的である。蘇峰の歴史観が、明治以後のいわゆる「薩長史観」に傾倒していることも事実であり、会津藩石田三成を論じるまでには至っていない。

戦後最大の思想史研究家と言われ、近代日本思想史の中で、保守思想を明確に定義付けたのは丸山真男である。丸山は幕末・維新期の思想家、特に荻生徂徠福澤諭吉を丹念に研究し、明治初期の健全なナショナリズムと大川周明田中智学に代表される昭和初期の「超国家主義」との二項対立史観の樹立を行った。この丸山の業績によって「保守」と「右翼」の違いが明瞭化され、後身の思想史家に大きな足跡を残した。続いて登場した小林秀雄江藤淳等は、論壇で戦後民主主義の批判を主張し、GHQによる戦後の言論統制や図書の焚書を明かした。歴史評論の分野では司馬遼太郎が、明るい明治初期とそれ以後の暗い大正昭和を描き出し、日露戦争を近代日本の最も輝かしい頂点とした。しかし、その「司馬史観」についてはさまざまな毀誉褒貶が生まれている。


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