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原子力撤廃(げんしりょくてっぱい、英: nuclear power phase-out)は、原子力すなわち核エネルギーの利用を撤廃することである。反原子力(英: anti-nuclear power)ともいう。字義通りには核兵器および原子炉すなわち核動力や核燃料を用いる全ての核エネルギー利用が対象となるが、本項では、主に後者について概説する。その他、「核廃絶」を含む原子力全般の撤廃を目的とする運動を反核運動という。地球温暖化対策に石炭や石油などの化石燃料による火力発電を世界的に控えている中でベースロードをどの代替エネルギーをどうするかのために議論がある[1]。 1953年1月、アメリカ合衆国大統領に就任したアイゼンハワーは、同年12月の国連総会で演説した際に「平和のための原子力」を唱えた。具体的にはそれまでのアメリカによる核の独占から、原子力技術を商品として輸出するという国策の転換が行われたのである。これを受けて、日本でも原子力発電へのエネルギー転換を主張する勢力が登場した。政界では、中曽根康弘を中心とする勢力、経済界では正力松太郎を中心とする勢力である[2]。 政界で、原子力の導入に熱心だったのが、当時改進党の国会議員だった中曽根康弘である[注釈 1]。内務官僚から政治家に転じた中曽根は、1951年1月、対日講和交渉で来日したダレス大使に「建白書」を差し出し、「原子科学を含めて科学研究の自由(原子力研究の解禁)と民間航空の復活」を要求した。そして1953年のアメリカの国策転換を受けて、1954年3月には、中曽根を中心とする改進党の国会議員が、自由党及び日本自由党の賛同を得て、1954年度予算案に対する3党共同修正案に日本初の原子力予算案を盛り込み、国会に提出。予算案は、具体的な使途が明確にされないまま、あっさり成立したと言われる[3][注釈 2]。原子力予算の突然の出現に狼狽した学会は、政府の原子力政策の独走に歯止めをかけるため、「公開、民主、自主」を原則とする「原子力3原則
日本における原子力撤廃の議論
経済界では読売新聞社主と日本テレビ社長を務めた正力松太郎が、アメリカとの人脈をバックに首相の座を狙ったという意見を評論家の有馬哲夫は述べている[6][注釈 4]。戦後公職追放から解かれると、正力は読売グループを総動員して原子力平和利用啓蒙キャンペーンを展開し、1955年には衆議院議員に当選[7]。同年財界人を説得して「原子力平和利用懇談会」を立ち上げ、同じ年の5月には、アメリカの「原子力平和利用使節団」を日本に招いた。同使節団は軍事企業のジェネラル・ダイナミックス社や米国の核開発を先導してきた科学者、民間企業の幹部からなるものである。さらに同年11-12月には、読売新聞社はアメリカ大使館と一緒になって日比谷公園で原子力の「平和利用」を訴える大イベントとして「原子力平和利用博覧会」を開催し、36万人の入場者を得た。その後、1956年から1957年にかけて、名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台、水戸、高岡と全国各地を巡回している[注釈 5]。1956年1月には原子力委員会の発足と同時に委員長に就任し、5月に科学技術庁が発足すると、初代科学技術庁長官に就任。こうして正力は名実ともに原子力行政のトップの座につき、日本の原子力行政を推進していくことになる。
1963年に動力試験炉の運転が開始され、1969年に原子力船むつが進水した[9]。その一方で、1970年頃から伊方原子力発電所をはじめ各地で原子力発電所建設への反対運動が起こった[10]。1974年に原子力船むつの放射線漏れが発覚。母港むつ市の市民から帰港を拒否された[注釈 6]。1973年、第一次オイルショック。時の首相田中角栄は「原子力を重大な決意をもって促進をいたしたい」と表明。1974年、電源三法が成立する[11]。
1978年、スイスの反原子発電所団体が「反原発デー」を提唱。1979年3月に発生したスリーマイル島原子力発電所事故の発生も踏まえ、日本国内でも同年6月3日に初の反原発デーが開催。各地で学生や市民団体による集会やデモが行われた[12]。中村政雄は、1979年のスリーマイル島原発2号機の事故以降、日本国内では原発賛成が減って行った、と評している[13]。
1982年頃には新左翼と旧左翼の大同団結が進み反核運動が活性化したが、吉本隆明はこれを批判した[14]。 日本の反原発運動の大きな転換点は、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故である。チェルノブイリ原発事故は、その規模の大きさと深刻さから世界的に大きく報道された。原子力事故の危険や放射性廃棄物の処理問題など、それまであまり注目されることのなかった問題が注目されるきっかけになった。 1986年8月、広瀬隆は著書『東京に原発を!』の改訂版を出版し[注釈 7]、続いて『危険な話』を執筆した。広瀬の著書は30万部を超える大ヒットとなり、広瀬の講演会は東日本を中心に頻繁に開催された[注釈 8]。その一方で、1988年に日本科学者会議が開催したシンポジウムでは、複数の研究者が広瀬隆の主張内容を「誤りと扇情的な筆致の問題点」とし反論している[15]。 1989年7月23日の第15回参議院議員通常選挙には、同年6月に小説「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}未来(ミキ)が原発神(アトムのかみ)に勝てたわけ」[16]を発表した作家の荒井潤
チェルノブイリ以降
2000年代に入り、地球温暖化問題が注目されるようになると、二酸化炭素を出さないとして原子力発電に肯定する宣伝がなされ、2009年10月に内閣府が行った世論調査によれば、原子力発電の今後について「推進していく」との回答が59.6%となり、「廃止」の16.2%を上回った。一方、原子力発電の安全性については「不安」が53.9%で、「安心」の41.8%を上回った[24]。
福島第一原発事故以降「原子力発電所反対デモ#東日本大震災による原発反対デモ」も参照東京の一地域で行われた反原発デモ