反体制派 (シリア 2011-)では、2011年からシリアで生じているシリア内戦において、バッシャール・アル=アサド政権の打倒を掲げる諸勢力について記述する。 チュニジアで発生したアラブの春は、2011年になるとシリアにも波及する。同年3月、ダルアーで政府に批判的なスローガンを壁に描いた少年が、警察によって拷問で殺されたとする報道がシリア国内外のメディアによって広く伝えられた。これをきっかけに、シリアの地方都市を中心に反体制派が抗議活動を行うようになる。同年10月には政府軍から離反した軍人たちが「自由シリア軍」なる反体制組織を各地で結成し、政権軍と実戦を行うようになった。暴力の応酬によって双方の死傷者は増え、それによって復讐心と憎悪が増幅され、それがさらなる暴力の応酬を生むという悪循環に陥った[1]。 シリアの反体制派には、当初から体系化された指揮系統は存在せず、雑多な組織群がそれぞれ合従連衡しながら活動しており、自由シリア軍もいくつかの武装勢力が個別に自称しているに過ぎず、これらの組織は2013年以降、「穏健な反体制派(moderate opposition)」 と呼称されるようになった。「穏健」でない反体制派には、テロ組織に認定されたレバント征服戦線
目次
1 概要
2 「穏健な反体制派」
3 イスラム過激派
4 ロジャヴァ
5 歴史
5.1 自由シリア軍の結成
5.2 イスラム過激派の台頭
5.3 アレッポ敗退
5.4 相次ぐ反体制派拠点の陥落
6 合従連衡
6.1 一覧
7 反体制派支配地の状況
7.1 刑務所
7.2 反体制派が支配した都市
8 構成員の素性
9 各国からの支援
10 反体制派とISIL
11 関連項目
12 出典
概要
反体制派組織は峻別されたものではなく、構成員の組織間移籍や組織間の合従連衡が繰り返されてきた。そのため、過激派組織と穏健派組織を厳密に区別することはできないとされる。ヌスラ戦線などいくつかのイスラム過激派組織は共通の起源をもち、外国人(非シリア人)が主導権を握っている[2]。
中東・イスラム圏の政情に詳しい明治大学特任教授山内昌之によると、自由シリア軍やシリア民主軍、イスラム国など主要な反政府グループは5つある。更に自由シリア軍は約100組織、シリア民主軍は約40組織で構成される[3]。
「穏健な反体制派」 2011年4月8日、ダマスカス近郊。当時の抗議者たちは「暴力反対」や「平和」を表す看板を掲げていた アレッポにて戦闘中の自由シリア軍兵士
「穏健な反体制派」は、イスラム過激派でないシリアの反体制派を指す。「自由」や「民主主義」をスローガンに掲げるが、シリアにおいては宗教的マイノリティのアラウィー派に属するアサドを倒し、多数派であるスンニ派の政権を作るというニュアンスが込められている[4][5]。アメリカなどの諸外国(シリアの友人たち)に支援されているが[4]、動員力が弱く、エジプト(2011年革命)やチュニジア(ジャスミン革命)で見られたような政府軍からの寝返りもほとんど起きていない。