双葉山定次
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双葉山 定次

双葉山定次(1940年頃)
基礎情報
四股名双葉山 定次
本名龝吉 定次
愛称不世出の横綱
相撲の神様
昭和の角聖
立浪三羽烏
無敵
うっちゃり双葉
協会の知恵袋
古今十傑
大鉄傘下の花形力士二人
生年月日1912年2月9日[1]
没年月日 (1968-12-16) 1968年12月16日(56歳没)
出身 日本大分県宇佐郡天津村布津部
身長179cm
体重122kg
BMI38.13
所属部屋立浪部屋
双葉山相撲道場
得意技右四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位第35代横綱
生涯戦歴348勝116敗1分33休(51場所)
幕内戦歴276勝68敗1分33休(31場所)
優勝幕内最高優勝12回
データ
初土俵1927年3月場所[1]
入幕1932年2月場所[1]
引退1945年11月場所[1]
引退後第3代日本相撲協会理事長
趣味写真[2]
備考
金星1個(武藏山武
2015年9月7日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

双葉山 定次[注釈 1](ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第35代横綱位階従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)[1]

現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た[3][4]。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ[3][4]
来歴
定次少年の角界入り

1912年2月9日大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった[5]。後年、双葉山は著書「相撲求道録」の中でこの事件について、友達と遊んでいる最中に目を傷めたことは覚えているものの、その原因が吹き矢だったことについてははっきりとした記憶が無いと語っているが、横綱審議委員長を務めた舟橋聖一は「誰が吹き矢を拭いたのかを唯一知っていたのは定次少年の父親で、定次少年が吹き矢を吹いた人物を恨んで自身のマイナスになることと、定次自身が傷つかないようにするため、決して名前を出さなかった」と分析している[6]。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む海運業が失敗して5000円(現在の2億5000万円相当)の借金を負い[7]、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男でありながら一家の家計を支えるべく手伝いをしながらたくましく育つ[8]浪曲研究家の芝清之が作成した「双葉山物語」では、この海運業の手伝いをしているときにの巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしている[5]ほか、定次が14歳の頃、乗船していた船が大波を受けて転覆して海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった[9]

定次は、相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなったところ、見物人から「押せ!押せ!」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒し、相手はしばらく起き上がれなかったという[9]。このことが地元の新聞に載り、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(のちに明治大学専務理事)の世話で立浪部屋に入門、1927年3月場所に初土俵を踏む。

四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川の一字も含まれる[8][10]。双川は大分県に赴任する前、立浪の出身地の富山県で学務部長を務めていて立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼んでいた。そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える[8]
誰とやってもちょっとだけ強い

宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」塾長の平田崇英が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門だった大八洲晃と午前6時から開始される朝稽古に揃って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」と立浪から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してかわいがりを加えることも日常茶飯事だったとされており、を盛ったバケツを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった[11]。下積み時代の双葉山の指導係だった高浪(のち旭川幸之S)に言わせると「相撲っぷりは平凡だった。ただ稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった」とのことであり、「まさかあんな大横綱になるとは…」とその出世ぶりに驚いている[8]入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時の幕下以下は1場所6番)が多く、大きく勝ち越すことがない一方で3勝3敗が何度かあって負け越しは無く、春日野常ノ花[12]から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。

1932年1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に春秋園事件が発生した。天竜三郎ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「主張は良いのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意、再編された2月場所の番付で西前頭4枚目と繰り上げ入幕となる。入幕後しばらくは相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかったが、足腰は非常に強いため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた[1][13][注釈 2]。「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた玉錦三右エ門だけは「あれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという[10]

1935年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越し、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だった。


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