双十暴動
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双十暴動
暴動中、李鄭屋徙置区(中国語版)では瓦礫が燃やされた。
日時1956年10月10日 - 10月12日
場所 イギリス領香港 九龍
目的李鄭屋徙置区の職員が中華民国の国旗と「双十」のエンブレムを撤去したことに対する右派分子による抗議
手段ストライキデモ活動放火占領、警察への襲撃
結果

暴動の参加者は逮捕され、香港外から暴動に参加した者は国外追放された。

中華人民共和国政府は香港政府が暴動を鎮圧できなかったことを非難した。

中華民国政府と中国国民党の香港における影響力が低下した。

イギリス政府は香港の将来についての本格的な検討を始めた。

参加集団

右派

三合会

親中華民国派

右派労働組合

支持:

中国国民党

中華民国政府

左派

親中華人民共和国派

左派労働組合

支持:

中国共産党

中華人民共和国政府

香港政府

香港警務処

政治部

香港輔助警察隊


王立香港連隊

王立香港予備飛行隊

支持: イギリス政府

駐香港イギリス軍

イギリス陸軍

イギリス空軍



指導者

なしなし アレキサンダー・グランサム
エッジワース・デヴィッド(中国語版)
アーサー・マクスウェル

死傷者数
死者59人
負傷者443人[1]
逮捕者6,000人[1]
起訴者2,195人[1]

双十暴動(そうじゅうぼうどう、: 雙十暴動、: Double Ten riots)は、1956年10月10日から10月12日にかけてイギリス領香港九龍?湾などの地域で発生した暴動である。

事件の原因は、中華民国国慶日である10月10日に、李鄭屋徙置区(中国語版)の職員が中華民国の国旗と巨大な「双十」のエンブレムを撤去したことである。この暴動はストライキデモから始まり、そこに14K三合会などの犯罪組織が介入したことで大規模な暴動へと発展し、中国国民党支持者と中国共産党支持者の間で激しい衝突が起こった[2]。最終的に59人の死者、443人の負傷者、6,000人以上の逮捕者を出し、香港史上最悪の暴動となった。
背景

1949年中華人民共和国成立後、多くの中国国民党関係者や支持者が香港に亡命した。10月10日中華民国国慶日(双十節)には、彼らの居住地区には毎年大量の中華民国国旗が掲揚された。

1951年11月21日九龍城東頭村の木造家屋が集中する地区で火災が発生し、1万人以上が家を失った[3]

1952年3月1日広州市人民政府(中国語版)が慰問団を香港に派遣して罹災者を訪問しようとしたが、慰問団が反植民地主義を喧伝することを恐れた香港総督アレキサンダー・グランサムによって入国を拒否された(?穂慰問団事件(中国語版))。

1956年中華人民共和国最高指導者毛沢東は「百花斉放百家争鳴」を提唱して言論統制を緩和し、中国大陸の情勢は一時的に落ち着いた。その結果多くの香港人が「多くの人が香港から中国大陸に行こうとするだろう」として国境検問所の再開を要求した。これを受けてグランサムは同年2月に国境検問所の再開を決定した[4]。統計によれば、1950年代半ばの香港の人口は約240万人であり、人口の1/3は中国大陸からの難民であった[5]。予想とは裏腹に国境検問所の再開は中国大陸から香港への流入を招いたため、グランサムは同年9月に関門の閉鎖を発表した。香港政府は、国境を開放した7ヶ月の間に中国大陸から香港に約6万人が入境したと記録した[4]

同年10月3日、香港市政局の徙置事務委員会は内部会議を開催し、徙置区(中国語版)内の建物の壁に旗や装飾を貼ってはならないと規定したが、旗の掲揚は禁止されなかった。
事件の経過
10月9日

宝星紗廠の宿舎において国旗撤去事件が発生した。工場の監督者は右派の労働者たちに中華民国国旗の撤去を要求した。工場が双十節を祝うのを妨害していると考えた右派の労働者たちは、10月10日から11日にかけて華興学校で集会を開き、抗議行動を起こすことを決定した。
10月10日石z尾徙置區(中国語版)で市民と対峙する鎮圧部隊。外壁に掲げられた大きな「双十」のエンブレムが見える。

午前10時、徙置事務処(現:房屋署(中国語版))の職員2人が、李鄭屋徙置区(中国語版)G座6樓に掲げられていた中華民国国旗と大きな「双十」のエンブレムを取り外した。午前11時、これを知った住民数百人が徙置区弁事処を取り囲み、職員2人が住民の怒りを鎮めるために旗を貼り直し、現場に駆けつけた警察官が住民を説得して立ち去った。数分後に国旗が再び撤去されているのが見つかると群衆は再び集まり、午後1時ごろには2,000人に達した[6]。群衆は「香港政府から10万個の爆竹の提供」、「警署の外壁に孫文?介石の肖像画と中華民国の国旗を掲げる」、「徙置区職員が孫文と蒋主席の肖像画の前に跪き、自分たちの過ちを認める」という3つの条件を警察に要求したが受け入れられず、彼らは警察と睨み合った。

午後2時、警務処助理処長率いるヘルメットボディアーマーを装備した60人の警察官が現場に召集され、警戒を続けた。午後2時25分頃、徙置事務処の職員2人が事務処を出たところを群衆に追い回され、殴打された。 群衆は警察官が職員を救出しようとしたことに不満を持ち、近くの食料品店から清涼飲料水の瓶を持ち出して警察官に投げつけた。その後、警察は群衆を鎮圧するために催涙ガスを4発発射した。午後2時30分までに、約360人からなる4つの鎮圧部隊が応援に駆け付けたが、そのうち1隊は建物の消火活動中に住宅のベランダから住民に投石されたため、催涙ガス3発を発射した。警察はその後、群衆が徙置事務処を破壊し、大量の家具やファイルを燃やしているのを発見した。午後3時30分ごろには暴動は沈静化し、鎮圧部隊2隊が警備を続けつつも青山道(中国語版)の封鎖は解除された。
10月11日旺角一帯で群衆を追い払う鎮圧部隊尖沙咀鐘楼に集結した鎮圧部隊イギリス軍と鎮圧部隊の協力により、暴動は最終的に鎮圧された。


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