友愛会
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、日本の労働者相互扶助団体について説明しています。その他の友愛団体については「フラタニティとソロリティ」をご覧ください。

友愛会設立1912年(大正元年)[1]
設立者鈴木文治
設立地東京芝 ユニテリアン教会・惟一館
種類労働者の相互扶助団体
目的ユニテリアン・ミッションの達成[2]
重要人物鈴木文治, 松岡駒吉
テンプレートを表示

友愛会(ゆうあいかい)は、大正元年日本で結成された労働者の相互扶助団体[2][1]。日本の労働運動の源流とされる[2]

後の友愛会は日本労働総同盟(総同盟)と改組し、戦後は全日本労働組合会議(全労会議)、全日本労働総同盟(同盟)を経て、現在は労働組合ナショナルセンター日本労働組合総連合会(連合)である[2]
設立

一、われらは互いに親睦し、一致協力して相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
一、われらは公共の理想に従い、識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんと期す。
一、われらは共同の力に依り着実なる方法を以って、われらの地位の改善を図らんと期す。 ?  友愛会綱領(1912年)
[1]

1912年8月1日鈴木文治ら15名が集まって組織された。鈴木文治がクリスチャンであったことから、キリスト教ユニテリアン派)の精神に立脚していた[2]。また、渋沢栄一からの援助も受けており、結成当時は労働者同士の相互扶助が目的で、性格は共済組合(フレンドリー・ソサイエティ[1])であり、現在言われているような労働組合ではなかった。11月3日機関紙『友愛新報』創刊。一年後には会員数は1326名となった[1]

当時の男性労働者には、任侠肌で浪費や遊蕩を好むといった「男らしさ」を至上の価値観とする対抗文化が形成されており、社会から疎外される階級となっていた。友愛会は労働者の地位向上のためには、労働者自らが刹那的で傍若無人な態度を改め、一般社会と価値基準を共有し社会規範に則った生活を実践する事で蔑視の対象から脱するべきとする修養主義を唱えた[3]

修養主義がどの程度労働者に受容されたかは定かではないが、大戦景気の終了とともに貧困の波が労働者を襲うようになると、その原因を個人の生活態度に還元することは困難となった[3]。友愛会は第一次世界大戦の下で急増していた労働争議に多く関係し、次第にその性格を変更させ、労働組合としての性格が強くなり、1919年には大日本労働総同盟友愛会に、1921年には日本労働総同盟に改称された[2]
年表

1914年9月19日 - 第1回協議会で、会費の増額、職業紹介部の設置、職業別組合の組織などを決定した。

1915年

4月26日 - 横浜支部および横浜海員部(海員組合の前身)は、連合発会式をおこなう。

5月10日 - 緊急協議会で、米国の
排日運動緩和のため鈴木会長の派米を決定し、6月19日、出発した。


1916年

4月2日 - 最初の地方連合会である磐城連合会の結成、以後、1917年5月までに横浜・東京・神戸・大阪でも地方連合会を結成。

4月10日 - 横浜海員支部の浜田国太郎が下級船員6000人の委任状を集め、日本郵船・大阪商船などに賃上げの嘆願状を提出(2割余の賃上げに成功した)。

6月 - 婦人部を設置。

8月1日 - 『友愛婦人』創刊。


1917年

4月6日 - 創立5周年大会で、分会の廃止、婦人も正会員とするなどを決定した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef