長沢 延子(ながさわ のぶこ、1932年2月11日 - 1949年6月1日[1])は、日本の詩人である。群馬県桐生市出身[2]。群馬県立桐生高等女学校(現・群馬県立桐生女子高等学校)卒業[3]。姓の長沢は長澤とも表記される。 1932年(昭和7年)、群馬県桐生市で生まれる[4]。父親は織物会社を営んでいた[4]。延子には姉と兄がおり、のちに弟が生まれる[4]。1936年(昭和11年)、延子が4歳のときに母親が胃癌で亡くなる[4]。延子によれば、自分の一番最初の記憶は棺の中の母親の死に顔であるという[5]。1938年(昭和13年)、桐生市西尋常小学校(1941年に桐生市西国民学校と改称)に入学、クラスで一番成績が良く、ずっと級長を務めた[6]。1942年(昭和17年)、猩紅熱にかかり長く入院する[7]。延子の手記によれば、この時期に間接的な自殺をくわだてたことがあるという[7]。 1944年(昭和19年)、小学校を卒業し群馬県立桐生高等女学校に入学[7]。この頃、今泉町にある伯父の元に移り住み、籍は入れないものの事実上の養女となる[7]。養家は桐生の裕福なお召織屋であった[5]。またこの頃、藤村、春夫、ヘッセなどの詩に惹かれ、自分でも詩を書くようになる[8]。戦時中ということもあり学校教育は事実上停止となり、勤労動員の工場で働くようになり、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦を聞いたのも工場であった[9]。 1946年(昭和21年)、女学校3年ではバスケット部に所属した[9]。授業をよくサボり、階段の踊り場に置かれた机の上に寝そべっては空を眺めるのを好んだ[5]。1947年(昭和22年)、新制高等学校の設置が決まり旧制女学校が4年制から5年制に移行、女学校4年となった延子はバスケ部の県大会で負けたのち、バスケ部を引退する[10]。 1948年、自殺した原口統三の遺著『二十歳のエチュード』を読むと強く感化され、自らを「原口病」であると称した[11]。女学校5年となった延子は、文芸部に入部し、新聞部や社会部をつくり、映画部にも所属した[10]。新聞部の活動として手書きの壁新聞をつくっては校内に貼って回った[12]。1948年12月、日本青年共産同盟(青共)に加入した[13]。1949年(昭和24年)3月15日、女学校を卒業[13]。 3月26日に友人に死のうと思っていることを告げ服毒自殺を試みるが失敗、その後身辺整理をして、6月1日に服毒自殺を遂げた[14]。戒名は美徳院温良妙延清大姉[3]。亡くなる前に詩と手記を清書した5冊のノートを親友に託していた[15]。 1965年(昭和40年)、家族と友人らにより遺稿集『海』が編纂され、500部自費出版された[16]。
経歴