.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}及川(おいかわ ) 古志郎(こしろう)
生誕1883年2月8日
日本・新潟県古志郡
死没 (1958-05-09) 1958年5月9日(75歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1903年 - 1945年
最終階級 海軍大将
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及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年(明治16年)2月8日 - 1958年(昭和33年)5月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。
岩手県出身[1][2][3](出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。
生涯の長男として生まれる(本籍は岩手)[4]。母親は大島高任の長女[5]。初めは「越郎」といったが[4]、後に生誕地から「古志郎」と改名した[6]。
岩手県で育ち、同県内の小学校を経て、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)[注釈 1]に進学した[7]。及川は野村胡堂や金田一京助、田子一民ら同窓生に勧められるままに、長詩・短歌を盛んに寄稿していた[注釈 2]。
1900年(明治33年)12月、海軍兵学校31期に入校。同期生に加藤隆義、長谷川清らがいる。及川が海兵を志願したのは、日露戦必至の情勢に加え、中学の先輩である米内光政、八角三郎がすでに海兵に進んでいた影響もあったという。1903年(明治36年)12月14日、海軍兵学校31期を卒業(兵学校卒業席次は76番[9]/185名[10])。1904年(明治37年)9月10日海軍少尉に任官。防護巡洋艦「千代田」乗組で日露戦争に参加。
1938年(昭和13年)4月25日、日中戦争の勃発に伴い第三艦隊が改めて編成され、及川は同日、支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官に就任。1939年(昭和14年)11月15日、海軍大将進級。 明治以来、西欧から輸入され形成されてきた海軍の統制教育に疑問を感じ「上官の命令に従うだけで本当に戦争ができるのだろうか、一人一人の兵隊が、その場その場で考えて、自分で判断できなければ戦いに負けてしまう」と考え、海軍兵学校の教育の改革を考えたのが32代校長の永野修身海軍中将だと言われている。しかしその永野が校長に就任する直前に教頭を勤めていて「職員の意識の変革を企画し、改革の準備を進めていた」のが及川古志郎であった。及川はその後、永野の改革を支え続け、第35代同校校長、更に1942年(昭和17年)10月18日には海軍大学校校長に就任。校長在任中、及川は和平派 日独伊三国同盟の問題の中、海軍大臣・吉田善吾が病に倒れて辞任し、1940年(昭和15年)9月5日、及川が第2次近衛内閣の海軍大臣に就任した。 及川は日独伊三国同盟に賛成したため調印されることになった。調印の10日前、米国から帰国する際にドイツの戦況を観て帰るように指示されていた矢牧章
及川と海軍教育の改革
海軍大臣