参勤交代
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参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代において各藩の主である大名交代寄合を交替で江戸に出仕させる制度。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵
概要

全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参覲し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行う制度である[1]鎌倉時代にみられた御家人鎌倉への出仕が起源とされる。将軍に対する大名の服属儀礼として始まったが、寛永12年(1635年)に徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。この制度では諸大名は一年おきに江戸と自分の領地を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならなかった[1]。側室および世継ぎ以外の子にはそのような義務はなかった。自分の領地から江戸までの旅費だけでなく江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たした[1]。もっとも、『御触書寛保集成』によると「従来の員数近来甚だ多し。且つは国郡の費、且つは人民の労なり。向後その相応を以てこれを減少すべし。」とあり、大名の過度な弱体化を防ぐため、幕府は参覲交代の際の支出を節減するように求めている。

参勤交代は、こうした政治的統制の面だけでなく、江戸と国元の定期的な交流により文化・経済の交流にも大きな役割を果たした[1]

なお、高野山(金剛峯寺)のように大名並みの領地を所有している寺社にも参勤交代に相当する「江戸在番」の制度があった[2][注釈 1]
名称

「参勤」とは自分の領地から江戸へ赴く旅、「交代」または「就封(しゅうほう)」とは自分の領地に帰還する旅のことである[1]。参勤は一定期間主君のもとに出仕し、任期が満了すると暇を与えられて自分の領地に帰り政務を執ることを意味する。「参っ」て「覲(まみ)える(=目上の人に会う)」ことであるから正しくは「参覲交代」と表記するが、役人が「参勤交代」と誤って記録に記述してしまって以来、このように書くのが一般的になった。

参勤交代を規定した『武家諸法度』の条文には

大名小名在江戸交替所相定也毎歳夏四月中可致参勤従者之員数……

とあり、交代は「交替」とも書かれる[注釈 2]
内容
原文

参勤交代を制度化したのは江戸幕府三代将軍の徳川家光であり、武家諸法度の寛永令にあたる条文より読み取ることができる。

一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参覲致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。

現代語に翻訳すると『大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。』という意味になる。
目的

この制度の目的は、過大な費用負担により諸大名の財政を弱体化させることで勢力を削ぎ謀反などを抑える効果、あるいは大名の後継ぎが制度上全員が江戸育ちとなることから精神的に領地と結びつきにくくする効果があったともいわれる[3]が、これらは結果論でしかなく、当初幕府にそういった意図はなかったという説が現在では有力である[4]。ちなみに、諸大名への金銭的負担をさせる目的ならば手伝普請などより効果的な手法も取り得たし、そもそも各藩の財政が破綻して軍役が不可能となっては本末転倒であることから「大名行列は身分相応に行うべき」と通達を行なっていることも、当時の幕府の文書から読み取れる[5]
沿革
制度前「大名証人制度」も参照

鎌倉時代には御家人鎌倉に参勤する制度があり、三年に一度の参勤が行われていた。また、和田畠山三浦佐々木などの旧功譜代の家は鎌倉に定住し、時おり、領地に戻るという生活を送った。室町時代には、細川・畠山などは在京し、その他の大名は京都に参勤した[6]。ただし、鎌倉府管轄の関東(後に東北も含まれる)の大名は鎌倉に定住していた(在鎌倉制)。戦国時代を経て、一部の戦国大名は服属した武士を城下に集めるようになり、織田信長安土城で支配下に服した大名に屋敷を与えた。


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