厳島神主家
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}杏葉九曜(ぎょうようくよう)[1]
本姓佐伯直
家祖佐伯鞍職
種別社家/武家
平民
出身地安芸国佐伯
主な根拠地安芸国厳島神社
凡例 / Category:日本の氏族
厳島神社
厳島神主家(いつくしまかんぬしけ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:嚴島神󠄀主󠄁家)は、安芸国(現在の広島県)厳島神社の神主を務めた一族である。鎌倉時代末期
から戦国時代には在地武士団として活動し、水軍を備えた国人勢力として活動した。家紋は杏葉九曜。推古天皇元年(593年)に、安芸国佐伯の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのが厳島神社の縁起である。文献にその名が初めて認められるのは弘仁2年(811年)となる。その後、厳島神社の神主家は佐伯氏が世襲していた。平安時代末期の神主家の当主であった佐伯景弘は、平氏一門に取り入り、厳島神社は平家の保護を受け、栄えた。その後、平家は元暦2年/寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで壊滅した。鎌倉幕府が開かれ源氏の時代となると、佐伯景弘は今度は鎌倉幕府に取り入った。その後の30年、時代の荒波を乗り越えて、厳島神社と神職の佐伯氏は繁栄を続けた。
しかし佐伯氏の繁栄は長く続かなかった。承久3年(1221年)の承久の乱で、佐伯氏は後鳥羽上皇側として活動したため、乱の終結後に佐伯氏は神主家当主の座を降ろされ、鎌倉幕府の御家人であった藤原親実
が新たな厳島神主家となった。その後の佐伯氏は、厳島神社の神官として活動することとなるが、建長3年(1251年)に奉納する舞を巡っての内部対立から訴訟問題を起こしている[2]。承久の乱の結果、承久3年(1221年)頃に中原親能の一族である藤原親実
が新たな厳島神主となった。しかし藤原親実は幕府の要人でもあり、厳島に下向して神職を務めることはなく、他の御家人同様、代官派遣による支配であった。その後、厳島神社は安定した時代を迎えるが、鎌倉時代末期には中央情勢の変化もあり、徐々に社領に下向する一族が現れた。この頃より厳島神主家藤原氏は安芸国に土着し、永仁2年(1294年)から永仁6年(1298年)にかけて、厳島神主家藤原親宣は鎌倉幕府より社領として桑原新庄、志路原、平良庄、井原、京都、六波羅、鎌倉の屋敷地を安堵され、在地勢力として勢力を蓄えるのである。建武の新政から南北朝時代の動乱では、最初鎌倉幕府軍として、千早城・赤坂城に籠もった楠木正成と戦う等の行動が見られる。時の当主の藤原親顕は騒乱に巻き込まれて南朝:建武3年、延元元年/北朝:建武3年(1336年)に討死した。親顕の不慮の死により藤原親直が神主職を継承した。南朝:建武3年、延元元年/北朝:建武3年(1336年)から南朝:元中4年/北朝:至徳4年、嘉慶元年(1387年)の50年もの長期に渡って厳島神主家の当主であった親直は、足利尊氏に接近し、その庇護を得た。そして南北朝の動乱が一定の安定した時代を迎えると、近隣の小早川氏と所領を巡って争いを起こし、周防国の太守・大内氏へと接近して、その庇護を得た。結果、大内氏に従属する形となり、応永4年(1397年)には大内満弘の要請により少弐氏への攻撃に参加し、九州で病没している。続いて当主となった藤原親胤も大内義弘に従って応永6年(1399年)の応永の乱にも加わり、足利幕府軍と干戈を交えた。義弘の討死に伴い幕府軍に降伏し、足利義満に赦されて帰国した。
藤原氏の時代(室町時代中期 ? 戦国時代)