この項目では、プロ野球の監督について説明しています。その他、原監督とよばれる人物については「原監督」をご覧ください。
原 辰徳読売ジャイアンツ第二次監督時代
(2015年3月22日)
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県相模原市南区
生年月日 (1958-07-22) 1958年7月22日(65歳)
身長
体重180[1] cm
86[1] kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手、外野手、一塁手、二塁手
プロ入り1980年 ドラフト1位
初出場1981年4月4日
最終出場1995年10月8日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
東海大学付属相模高等学校[2]
東海大学[2]
読売ジャイアンツ (1981 - 1995)
監督・コーチ歴
読売ジャイアンツ (1999 - 2003, 2006 - 2015, 2019 - 2023)
日本代表 (2009)
野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2018年
得票率78.7%(122票中96票)
選出方法競技者表彰(エキスパート部門)
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原 辰徳(はら たつのり、1958年〈昭和33年〉7月22日[2] - )は、福岡県大牟田市生まれ、神奈川県相模原市出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)。
読売ジャイアンツのオーナー付特別顧問を務める。 2002年から2年間、2006年から10年間、そして2019年から2023年までの4年間、通算3度、17年間にわたって読売ジャイアンツの監督を務めた[3]。2009年には日本代表監督も務めた。 福岡県大牟田市生まれ、神奈川県厚木市、相模原市育ちである[4][注 1]。 1980年代から1990年代中盤にかけて巨人の4番打者を務め、ON時代後の巨人を支え、選手としては6度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ優勝に貢献。入団から12年連続で本塁打20本以上を記録し、4番としての出場試合数は球団歴代4位である。 ヘッドコーチとしては1度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献。 監督としては9度のリーグ優勝と3度の日本シリーズ優勝、1度のアジアシリーズ優勝に導いている。2009年にはワールド・ベースボール・クラシック日本代表の監督を務め、優勝へ導いた。巨人監督の在任期間は2023年で通算17年目となり、歴代最長の在任期間となった。 また、2009年より国際武道大学の客員教授[5]、2016年より東海大学の客員教授を務める[6]。愛称は「(永遠の[7]・平成の)若大将」[7]。 父は、福岡県立三池工業高等学校で野球部の監督を務め、同校を1965年夏の甲子園で優勝へと導いて三池工フィーバーを起こし、その後東海大学付属相模高校や東海大学硬式野球部などで監督を務めた原貢[8]。辰徳と同じく東海大相模高校・東海大学の野球部に所属し、巨人に入団した菅野智之は甥(妹の子)にあたる。 幼少期を福岡県大牟田市で過ごし、市内にある東洋高圧(現・三井化学)大牟田の社宅に住んでいた。なお、同じ社宅には真弓明信も住んでいた[9]。私立平原幼稚園を卒園したのち、大牟田市立平原小学校、大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校。小学校2年のとき、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県厚木市へ転居[10]。厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校に在籍していたが、その後相模原市に再転居したため、厚木を離れた。相模原転居後は相模原市立上鶴間中学校に転校して在籍した。 厚木在住時代には公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には推理小説家の森村誠一一家も住んでいた[注 2]。 1974年、東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。甲子園には4回出場している。1974年夏の選手権は準々決勝で鹿児島実の定岡正二に抑えられ、延長15回敗退[12]。1975年の春の選抜では決勝に進出する。決勝では杉村繁のいた高知高に延長13回の接戦の末に敗れ、準優勝にとどまった[13]。同年夏の選手権は準々決勝で上尾高に敗退した[12]。直後の全日本高校選抜チームによるアメリカ西海岸・ハワイ遠征にも選出された。1976年夏の選手権は2回戦で小山高に敗れる[12]。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二[注 3]、宇野勝、土屋正勝、杉村繁らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にする程の「原フィーバー」を巻き起こした。
概要
経歴
プロ入り前
高校時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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