原良
町丁
鹿児島市立原良小学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度35分48秒 東経130度31分25秒 / 北緯31.596778度 東経130.523528度 / 31.596778; 130.523528座標: 北緯31度35分48秒 東経130度31分25秒 / 北緯31.596778度 東経130.523528度 / 31.596778; 130.523528
国 日本
都道府県 鹿児島県
市町村 鹿児島市
地域中央地域
地区城西地区
人口情報(2020年(令和2年)4月1日現在)
人口5,468 人
世帯数2,578 世帯
郵便番号890-0026(原良一丁目から原良七丁目)
890-0025(原良町)
市外局番099
ナンバープレート鹿児島
運輸局住所コード[2]46500-0382(原良町)
46500-1941(原良)
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原良(はらら[3])は、鹿児島県鹿児島市の町丁[4]。旧薩摩国鹿児島郡鹿児島近在原良村、鹿児島郡伊敷村大字永吉(一部)。郵便番号は原良一丁目から原良七丁目までは890-0026[5]、原良町は890-0025[6]。人口は5,468人、世帯数は2,578世帯(2020年4月1日現在)[7]。原良一丁目から原良七丁目まで及び原良町があり、原良一丁目から原良七丁目までの区域で住居表示を実施している[8]。 鹿児島市の中部、甲突川の中流域に位置する[9]。シラス台地を浸食した原良谷と甲突川右岸の低地からなる[9]。原良谷から甲突川右岸にかけて住宅が立ち並ぶ[9]。町域の北方には草牟田、永吉、南方には城西、東方には新照院町、西方には武岡、明和、常盤がそれぞれ接している。 町域の南部には鹿児島市立原良小学校が所在している。また、江戸時代には薩摩藩家老であった小松清廉の屋敷や花岡島津家の別荘である花岡屋敷があった[9]。 原良という地名は「角川日本地名大辞典」によれば、台地上に原野があったことに由来している[4]。 また、「原良」という地名は難読地名であり、平凡社の『日本歴史地名大系』(1998年刊行)の難読地名一覧には「原良」(はらら)として[10]、東京堂出版の『難読地名辞典』(1993年刊行)には「原良町(はららちょう)」として掲載されている[11]。 原良という地名は古くは室町時代より見え薩摩国鹿児島郡のうちであった[4]。「西藩野史」や「応永記」によると応永20年(1413年)に島津久豊の居城である清水城を攻略した伊集院頼久は軍を原良の南西部丘陵の原良塁に構えたが、島津久豊は原良へ軍を進めて頼久の軍を討ち鹿児島を奪還した[12][4][13]。 江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであり、原良村は鹿児島近在のうちの「近名」であった[14]。村高は「天保郷帳」では839石余[4]、「郡村高辻帳」では839石余であった[13]。1871年(明治4年)に原良村が永吉村に編入された[4][13]。「永吉 (鹿児島市)」も参照 1920年(大正9年)10月1日に鹿児島郡伊敷村大字永吉の区域が伊敷村より鹿児島市に編入された[15][16][17]。ただし、町としての設置は編入から5年後となる1925年(大正14年)8月に行われ、永吉の一部より分割され鹿児島市の町「原良町」として設置された[18]。 第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)8月6日には原良町付近においてアメリカ軍による空襲が行われた(鹿児島大空襲)[19]。1955年(昭和30年)には原良町に新設校として鹿児島市立原良小学校が設置された[20]。
地理
河川
甲突川
原良川
町名の由来
歴史
成立から永吉村編入まで
永吉からの分立以降
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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