原罪
[Wikipedia|▼Menu]
ミケランジェロの『原罪と楽園追放

原罪(げんざい、英語: original sin[1], ラテン語: peccatum originale[2])は、キリスト教内の西方教会において最も一般的な理解では、アダムイヴから受け継がれた罪のこと。
概要

ユダヤ教では、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とする「いわゆる原罪」の概念を採る説もあるが、多数派はそのような見解を否定する[3]

現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある[1]。しかし、西方教会内でも教派ごとに様々な見解がある。

また正教会では、原罪についての理解が西方教会とは異なるのに止まらず、そもそも原罪という語彙自体が避けられる場合もある[4][5]。正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理とすること(教義化)を避けて今日に至っている[6]
創世記該当箇所

原罪概念の前提となっているアダムイヴ(女)による罪は、創世記3章に記されている。創世記の1章から3章までは多くの聖書註解書において1節ごとに詳細かつ重要視される註解がなされる箇所であり、しかも教派・思想の違いによる見解の差も小さく無い。以下の簡潔な記述は、あくまで創世記で原罪にかかる該当箇所の概要に止まるものである。

神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが(創世記2章15節 - 17節)、善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 - 7節)。ここで蛇は女に強制しておらず(強制できず)、女もアダムに強制してはいないことが、女とアダムそれぞれ自身の意志によって犯された責任ある罪であることを意味するものとして言及される[7]。ここでの蛇は悪魔を意味すると言う解釈が伝統的になされるが(特に正教会[8]カトリック教会[9]においては現在もそう捉えられる)、狡猾なうそつきの一動物であって悪魔を意味するものではないとする解釈や[10]、「蛇は悪魔を意味する」のではなく「蛇の背後に悪魔が存在する」とする解釈[11]などが(特にプロテスタントで)なされることがある。

その後、神は自分の命令に背いたアダムと女に対して何を行ったのかを問いかけたが、アダムは神に創られた女が勧めたからとして神と女に責任転嫁をし、女は蛇に騙されたと責任転嫁をした(創世記3章9節 - 13節)。ここでの神がした問いかけは単なる質問ではない(神は全知全能なので知らないことはない)。人に問いかけることで、罪の自覚を促し、悔い改めの機会を与えるものであった。しかしアダムも女も、責任転嫁に終始してこれに応えなかった[7][9][12]

神は蛇を呪い、女の子孫がおまえのかしらを砕くと預言した(創世記 3:14 - 15)。これは神の母マリアから生まれたイエス・キリストが、十字架を以て悪魔を破壊することであるとされたり(ガラテヤの信徒への手紙 3:16, 26、ヨハネの手紙一 3:8 - 10、正教会における解釈例)[13]、悪魔と戦うことであるとされたりする(カトリック教会における解釈例)[9]。他方プロテスタントの中には、長い時を経る中でそのような救いの展開はあったものの、この箇所ではそこまで直接的な預言はされていないと解釈する者もいる[14]。このように教派等によって様々な見解の差はあるものの、この箇所は直接的にせよ間接的にせよイエス・キリストが悪に対して致命的打撃を与える預言であり「原福音」とする基本的解釈については、概ね一致している[12][15]

女に対しては産みの苦しみと夫からの支配を、アダムに対しては地から苦しんで食物を取ることと土にかえることを預言した(創世記3章16節 - 19節)。神はアダムとイヴのために皮の着物を造ってアダムとイヴに着せた。なお、3章20節で女の「イヴ」という名が出て来る(創世記3章20節 - 21節)。ここで神が人類に下した判決において、その後の苦しみが指摘されているが、蛇に対してのような「呪い」はなされていない[9][12]。皮の着物が与えられたことには、神の絶えない愛が表されているとも解釈される[16]

神は人(アダムとイヴ)を楽園から追放した(創世記3章22節)。この楽園追放(失楽園)についても、教派・思想によって解釈が異なっている。
教理史

初代教会には原罪の教理について様々な見解があった[17]

2世紀エイレナイオスは、全ての人類の頭であるアダムにおいてすべての人類が文字通り罪を犯したとした。テルトゥリアヌスは初めて、アダムとイヴから人類全てが受け継ぐものとして原罪を理解した。他方アレクサンドリアのクレメンスは、原罪は全ての人間が罪を犯すという事実を表す象徴であると主張し、原罪は現行罪の不可避性を表現するものと理解した(場合によっては、クレメンスは原罪説を否定していると解されることもある)[17][18]

受け継がれるものとしての原罪について詳細に説明し、「アダムから遺伝された罪」とし、両親の性交を遺伝の機会として解釈したのは、アウグスティヌスである[17][18]カトリック教会西方教会)は、オランジュ公会議(529年、Councils of Orange)において、原罪にかかるアウグスティヌスの教えを承認した[19]。アウグスティヌスはアダムとイブが恥じ、陰部を隠したのは性行為を行ったからであると解釈し、それを原罪とした。[要出典]

宗教改革以降、アウグスティヌスの教え、およびオランジュ公会議のカノン[要曖昧さ回避]などの影響を受け、改革派教会は原罪にかかる教理として全的堕落説を展開した[20]。これに対し、カトリック教会はトリエント公会議(1546年 - 1547年)において予定説とともに全的堕落説を否定することを確認し、アウグスティヌスの教えについて誤解している(とカトリック教会は考えた)プロテスタントの教えを否定し、原罪にかかる教理を確認した[21][22]

一方、正教会は上述のように公会議や教義論争を通じて原罪の概念の定式化に努めた西方教会と異なり、同概念につき、公会議による定理化(教義化)を避けてきており、その理解には様々な見解の余地がある多様性がある[6]ニッサの聖グリゴリイ(ニュッサのグレゴリオス)をはじめとしたギリシャ聖師父を引証しつつ、アダムとイヴの堕落の結果は肉体のみならず道徳的な面にも及ぶと理解されるが、アウグスティヌスのような「弱さと同時に罪責を(受け継いだ)」とするような「法律的な」理解は避けられる[23]
西方教会
カトリック教会

カトリック教会において原罪とは、人類の歴史の出発点にある人祖(アダム)の罪であるとされ[24]、その罪とは神に対する不従順であることは間違いないとされる[25]

他方、人祖の罪が具体的に何であるかは不明であり[25]、神と善のみが理にかなった光であり悪は不可思議なものであり続けるともされ[26]、原罪には完全に理解され得ない神秘的な面があるとされる。

なお、原罪の教理ローマの信徒への手紙5:12 - 21にも示されている通り、イエス・キリストによる救いと切り離して理解することは出来ないともされる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef