原町_(仙台市)
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原町
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日本
都道府県 宮城県
市町村 仙台市
行政区宮城野区
人口(2017年(平成29年)4月1日現在)[1]
 ? 合計5,803人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号983-0841
市外局番022[2]
ナンバープレート仙台

原町(はらのまち)は、宮城県仙台市宮城野区の地名である。江戸時代に街道の宿場町である原町宿(はらのまちじゅく)が置かれ、明治時代には町制の原町となった。昭和始めに仙台市に編入され、仙台の東部における交通や流通の要衝となった。
地理

仙台の東部、宮城野区の中心部に当たる町である。この地には古くから街道が通っていたことから多くの人が往き来していた。仙台市の政令指定都市移行前はUR仙台原町団地内に仙台市役所東支所が置かれていた。移行後は陸前原ノ町駅前に宮城野区役所が置かれている。

明治、大正時代においては宮城郡原町であり、昭和の仙台市編入後は、原町小田原、原町南目、原町苦竹の地名が広範囲において称された。その範囲は現在の青葉区若林区の一部と宮城野区西部に当たる。1970年から始まった住居表示制度によってそれぞれ町名が変更された。現在、原町は1丁目から6丁目があり、小字として原町南目、原町苦竹がわずかに残る。現在の宮城野区役所の所在地は宮城野区五輪であるが、これもかつては原町小田原だった。
歴史
江戸時代

江戸時代に仙台城下から東へ向かう街道の宿場町として、苦竹村と南目村に跨る形で設置されたのが原町宿である。この街道は仙台城下から原町宿、利府宿、高城宿、小野宿と続く道で、そこで石巻方向と気仙方向に分岐し、石巻街道、気仙街道、南部海道とも呼ばれた[3][4]。江戸時代以前の戦国時代には原町の地を東街道が南北方向に貫き、それに沿うように形成されていた町が、藩政時代に東西方向に付け替えられたと考えられている[5]

江戸時代の原町は物流の拠点でもあった。江戸時代初期に七北田川の流路が付け替えられ、それに併せて水運のための運河が開削された。塩竃湊から入った船荷は舟入掘を伝い、蒲生で七北田川に移し変えられ、さらに鶴巻から舟曳堀を経由して苦竹に揚がり、原町の藩の蔵場まで牛車で運ばれた。この当時の牛車は主に江戸などで使われるもので、この原町の事例は珍しいものだと言われる[6]。また、原町には代官所が置かれ、城下町以外の宮城郡のうち、陸方、浜方、国分を管轄した。

江戸時代後期、原町に俳人の田村巣居がいた。田村巣居は丈芝坊白居の弟子で、自らの句集や松尾芭蕉俳句の研究を著した[7]
明治・大正・昭和初期

明治時代の原町は仙台とその周辺における流通の中心地の一つだった。原町には米穀商が多く集まり、米、麦、大豆の集散地となっていた他、高砂村から魚の行商が来ていた。また、塩竈七ヶ浜の海産物が仙台の肴町に運ばれる流通経路上にあったことから、1880年明治13年)に原町に魚問屋が誕生した[8]

1888年(明治21年)に市制町村制が公布され、翌1889年明治22年)、宮城郡の南目村、苦竹村、小田原村が合併し、同時に仙台区の一部だった北六番丁の一部を編入して、自治体としての原町が成立する[9][10]

1918年大正7年)に仙台市が原町と長町を合併する構想が生まれる。しかし、この頃は郡制が施行されており、原町には宮城郡の郡役所が、長町には名取郡の郡役所が置かれ、町は郡の監督を受ける立場だった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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