原町田
町丁
町田駅前の街並み(原町田6丁目)
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}原町田原町田の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度32分36.4秒 東経139度26分42.83秒 / 北緯35.543444度 東経139.4452306度 / 35.543444; 139.4452306
国 日本
都道府県 東京都
市町村 町田市
地域町田地域
面積[1]
? 合計1.017 km2
人口(2018年(平成30年)1月1日現在)[2]
? 合計14,257人
? 密度14,000人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号194-0013[3]
市外局番042 (相模原MA)[4]
ナンバープレート多摩
※座標はJR町田駅付近
原町田(はらまちだ)は、東京都町田市の地名。現行行政地名は原町田一丁目から六丁目(住居表示区域)。郵便番号は194-0013[3]。 ターミナル駅である町田駅が所在し、駅周辺は町田市の中心市街地にあたる。町田駅も1908年に横浜鉄道(現在のJR横浜線)の駅として開業した当時は原町田駅という名称であった。ペデストリアンデッキ(歩行者専用通路)が小田急とJRの駅と、マルイ・ルミネ・町田東急ツインズなどの駅前の大型商業施設を結んでおり、乗り換え客などで人通りが多い。南多摩・相模(武相)においては、立川駅や八王子駅周辺などと並ぶ地域最大級の繁華街である。東は高ヶ坂、南は金森、金森東、北は森野、中町、南大谷、西は神奈川県相模原市南区上鶴間本町と接している。 西端をJR横浜線が通り、小田急小田原線が北端を通っている。周辺道路はいずれも交通量が非常に多いため、渋滞が発生しやすい。 住宅地の地価は、2014年1月1日の公示地価によれば、原町田3-14-8の地点で27万7000円/m2となっている。[5]
地理
河川
境川 - 神奈川県相模原市との都県境付近を流れる。
地価
歴史町田駅前の商店街
鎌倉時代頃より鎌倉街道が通っていたが、江戸時代半ば頃までは鎌倉時代に宿の置かれた本町田が中心で、この地域は農地や原野が広がっていた。江戸時代後期頃、八王子から横浜へ生糸を運ぶための絹の道や、東海道・大山街道の脇往還がこの地を通り物資の中継地となったため、次第に生糸取引や宿場として栄えるようになり、製糸・織物・乾物を中心とした商業も盛んに行われた。昭和に入ると、近隣地域に原町田陸軍病院・原町田陸軍通信学校・原町田陸軍兵器学校(いずれも原町田と冠しているが所在地は相模原市)や陸軍士官学校(座間市)が移転し、1942年に綾瀬市と大和市にまたがる厚木飛行場が完成すると、軍人や軍属の住民が周辺地域に増加し、原町田周辺がより発展することとなった。第二次世界大戦時は陸軍関係の学校や病院は相模大野周辺に多かったものの、軍需工場が少なかったためか空襲の被害は少なかった。 町田村(現在の本町田)の近隣の原野を開拓した村であったことから。
地名の由来
沿革
1582年(天正10年)
三橋新右衛門の開基により八王子の極楽寺の末寺として勝楽寺が現在地に創建される。
当時の町田村(現在の本町田)の農民が農地拡大のため近隣の原野を開拓、町田村から分村し原町田村となる。残る旧来の町田村域は本町田村に改称。北条氏照に市開設が認可され、この年から定期市が開催される(六齋市)。
1627年(寛永4年) - 原町田村及び周辺地域が駿府藩主徳川忠長領となる。
1631年頃(寛永8年) - 旗本高木領となる。
1698年(元禄11年) - 旗本田中領となる[7]。
享保年間 - 1村1知行主の旗本領となる。
1863年(文久2年) - 米価が高騰、治安が悪化し原町田村で農兵隊が結成される。
1868年(慶応4年、明治元年) - 原町田村が武蔵知県事に属す。その後同年末までに東京府となるものの、多摩地域が横浜に居住する外国人の遊歩区域であるという神奈川県知事陸奥宗光の上申により神奈川県に移管される。
1873年(明治6年) - 区番組制
1878年(明治11年) - 郡区町村編制法により、南多摩郡に属する。
1884年(明治17年) - 連合戸長役場制により原町田村・本町田村・森野村・南大谷村・金井村が5か村連合となる。連合戸長役場は原町田村に置かれる。
1888年(明治21年)11月 - 神奈川県会議員初代議長である石坂昌孝らが民権政社融貫社を設立。
1889年(明治22年)4月1日 - 原町田村・本町田村・森野村・南大谷村が合併し町田村となる。
1893年(明治26年)4月1日 - 多摩郡域が神奈川県から東京府に移管される。