原田雅彦
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原田政彦」とは別人です。

原田雅彦

基本情報
誕生日 (1968-05-09) 1968年5月9日(56歳)
出身地 日本
北海道上川郡上川町
身長174cm
選手情報
クラブ雪印
ワールドカップ
シーズン1986年-2006年
優勝回数9回
他の表彰台12回
表彰台獲得数21回

獲得メダル

男子 スキージャンプ
オリンピック
1998ラージヒル 団体
1994ラージヒル 団体
1998ラージヒル 個人
ノルディックスキー世界選手権
1993 ファールンノーマルヒル 個人
金1997 トロンハイムラージヒル 個人
1997 トロンハイムノーマルヒル 個人
銀1997 トロンハイムラージヒル 団体
1999 ラムサウラージヒル 団体
銅1999 ラムサウノーマルヒル 個人


最終更新日:
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原田 雅彦(はらだ まさひこ、1968年5月9日 - )は、北海道上川郡上川町出身[1]雪印乳業所属の元スキージャンプ選手、指導者、解説者。血液型A型。1998年長野オリンピックスキージャンプ団体金メダリスト。1993年及び1997年ノルディックスキー世界選手権スキージャンプ個人金メダリスト。
経歴

小学校3年生時からスキージャンプを始め、上川中学校時代に全国中学選手権で2度優勝。東海大学付属第四高等学校(現東海大学付属札幌高等学校)でインターハイ優勝。卒業後、1987年雪印乳業入社。

日本代表入りし、1990年代以降、日本を代表するスキージャンプ選手となる。1991年に世界選手権に初出場。日本人の中でも早くからV字ジャンプに取り組み、そこから頭角を現した。1992年アルベールビルオリンピック1994年リレハンメルオリンピック1998年長野オリンピック2002年ソルトレークシティオリンピック2006年トリノオリンピックの計5回の冬季オリンピックに出場。オリンピック、世界選手権を通して9個のメダルを獲得しているが、これは日本人最多である。スキージャンプ・ワールドカップは日本勢歴代4位の個人通算9勝。

2006年3月20日に引退を表明し、3月25日伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会を最後に現役を引退した。

現役引退後も引き続き会社に残り、雪印メグミルクスキー部コーチに就任。以降スキージャンプ中継の解説者も務めている。

2014年4月、同スキー部の斉藤浩哉前監督の退任を受けて監督に就任[2]

2015年10月、全日本スキー連盟理事に就任[3][4]

2021年4月、雪印メグミルクスキー部総監督に就任[5]。10月、2022年北京オリンピックの日本選手団の総監督に就任することが明らかになった[6]

2023年4月には雪印メグミルクスキー部アドバイザーに就任する[7]
競技内容・評価
アルベールビルオリンピック

初出場した1992年アルベールビルオリンピックにおいて個人ラージヒルで4位となり日本勢3大会ぶりの入賞を達成。周囲から「あと少しで銅メダルだったのに」とも言われたが、この回を含めて計5回五輪に出場した本人は後年「この時が一番楽しい五輪だった」と述べている[注釈 1]

1993年ファールン世界選手権個人ノーマルヒルにおいて優勝を達成して自身初めて世界一に輝く。
リレハンメルオリンピック以降
大舞台での失敗

1994年のリレハンメルオリンピックでは一転して優勝候補として注目されたことが、本人にとってプレッシャーとなる[1]。当大会のジャンプ団体戦で日本は2位ドイツを55点差で大きくリードし、第4グループのジャンプ2本目を残すのみとなった。原田の直前に飛んだドイツのエース、イェンス・バイスフロクが135.5mの大ジャンプをマークするが、それでも105m以上飛べば日本の優勝が決まるはずであった(ジャンプ台のK点は120m)。

しかしこれが大きな重圧になったのか[8]、ラストジャンパーとしてジャンプ台に立った時から普段の自分とは違う感覚に襲われて[1]97.5mの失敗ジャンプに終わり、日本はドイツに抜かれ銀メダルに終わった。

着地直後、頭を抱えてうずくまる原田のもとにチームメイトの葛西紀明西方仁也岡部孝信が駆けつけ、「銀メダルなんだから胸を張りましょうよ」と励まされた[注釈 2]。なお、原田はこの大会、個人ノーマルヒル2回目に54.5m、個人ラージヒル2回目も101.0mという失敗ジャンプでそれぞれ順位を落としている。
スランプからの脱出

原田は金メダルを逃す要因となってしまったことでマスメディアからの批判のほか、「へらへら笑うな」「お前のせいで負けた」などと一部の一般人からもバッシングを受け、1年以上自宅などへの嫌がらせもあった。上記の失敗ジャンプによるバッシングや、また船木和喜のフォームを意識するあまりスランプに陥った。

しばらく結果が出せない時期が続き焦りが出たが、妻の「自分らしく飛べばいいんじゃない?」などの言葉が大きな支えとなった[1]。1995-96シーズンに本来のフォームに戻したことで調子を取り戻し、度々ワールドカップで優勝するようになる。

長野オリンピックの前年である1996-97シーズンは一時不振に陥るも、トロンハイム世界選手権の個人ラージヒルで優勝。五輪、世界選手権を通じてラージヒルの優勝は日本人初の快挙で、世界選手権の個人で通算2度の優勝は日本人で唯一である。なお、同大会では個人ノーマルヒル及び団体ラージヒルで2位となっており、出場した全種目でメダルを獲得している。
長野オリンピック


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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