原田 毫衛
生誕生年不明
日本 岡山県
死没1943年8月19日
フランス領 ニューカレドニア ヌーメア付近
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1925 - 1943
最終階級 海軍大佐
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原田 毫衛(はらだ はくえ[1]、生年不明 - 1943年(昭和18年)8月19日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。「伊165」時代には太平洋戦争開戦直後に英東洋艦隊の戦艦を発見したことでマレー沖海戦の端緒をつくり、「伊17」時代にはガダルカナル島の戦いで最初の潜水艦輸送(丸通)を実施。また、商船攻撃においても戦果をあげた潜水艦長である。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。 原田は岡山県出身で、海兵52期生である。1924年(大正13年)7月、下位[2]の成績で海軍兵学校を卒業した。海兵52期生の遠洋航海は豪州方面に向かい、練習艦隊司令官・古川テ三郎のもとで実務訓練を受けた。翌年12月、海軍少尉に任官。原田は「呂68」、「呂65」と旧式潜水艦での艦長勤務を経て、1941年(昭和16年)8月、「伊165」潜水艦長に補された[注 1]。 「伊165」は海大5型潜水艦の1番艦で、「日本式潜水艦はようやくその体をなし」と評価された海大3型の改良型である[3]。最新鋭艦ではないものの、やはり「呂65」から転任し原田の後任艦長となる鳥巣建之助
生涯
伊165潜水艦長1941年、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ艦上のチャーチル首相(前列右)とルーズベルト大統領。プリンス・オブ・ウェールズの喪失を寝室で聞いたチャーチルは「一人でいたのがありがたかった」と日記に記している。
マレー沖海戦
「伊165」は英東洋艦隊に備えるため、開戦時にはマレー半島東方で散開線についていた。イギリス東洋艦隊にはプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの2戦艦が配備されており、その動向はマレー作戦の帰趨に関わると考えられていた。その所在は日本海軍の大きな関心を集めていたが、中央散開線の最東端にあった「伊165」は両戦艦の発見に成功する[6]。1941年(昭和16年)12月9日15時15分、原田が発した敵発見電は次の通りであった。敵レパルス型戦艦二隻見ユ、地点コチサ一一、針路三四〇度、速力十四節、一五一五
この発見電が端緒となり、翌日には帆足正音搭乗の索敵機(九六式陸攻)によって2戦艦の所在が再発見されマレー沖海戦が生起。陸上攻撃機部隊は航行中の2戦艦を撃沈したのである。軍令部で潜水艦を担当していた井浦祥二郎はこの「伊165」の発見電につき、「世に秘められた潜水艦の大きな功績というべき」としている[7]。この後、「伊165」は乙潜水艦部隊に編入され、翌年1月にはフランス領インドシナのカムラン湾から出撃しインド洋方面で交通破壊戦に従う。「伊165」の戦果は1月に2隻(計6105t)、2月に2隻(計9961t)の商船撃沈[8]とするものや、商船3隻(計6105t)[9]、商船5隻[10]とするものがある。 1942年(昭和17年)3月には佐世保に戻って整備を受たが、第五潜水戦隊の各艦は老朽化のため修理が遅れ[11]、5月24日に南洋諸島のクェゼリン環礁に進出し、ここでミッドウェー作戦を知らされることとなる。第五潜水戦隊が哨区についたのは6月4日以後であり、6月5日から開始されたミッドウェー海戦では乙散開線にあり、空母「赤城」ら4空母被弾喪失後は、米海軍空母部隊捕捉を目的とした命令によって散開線を変更することを繰り返した[12]。同海戦では「伊168」(田辺弥八潜水艦長)が、米空母ヨークタウンを撃沈する戦果をあげたものの、潜水艦の使用法に問題があった。
ミッドウェー海戦