原田左之助
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 凡例原田 左之助
時代江戸時代末期(幕末
生誕1840年天保11年)
死没1868年7月6日慶応4年5月17日、29歳没)
別名:忠一
戒名正誉円入居士(正誉円入信士)
墓所不明
藩伊予松山
父母父・長次
兄弟半次
妻マサ(おけい)
子茂
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原田 左之助(はらだ さのすけ)1840年天保11年) - 1868年7月6日慶応4年5月17日)は、新選組隊士(副長助勤)。は忠一。

伊予松山藩に生まれる。はじめ藩の武家奉公人(中間)だったが、のちに出奔。その後浪士組に参加して上洛。主だった新選組の戦闘に関わり活躍した(芹沢鴨一派の粛清、長州藩の間者・楠小十郎斬殺、大阪西町奉行与力・内山彦次郎暗殺、池田屋事件禁門の変三条制札事件油小路事件など)。

鳥羽・伏見の戦い甲州勝沼の戦いまでは新撰組甲陽鎮撫隊)として戦うが、江戸に敗走の後、近藤らと意見衝突して袂を分かち永倉新八と共に靖兵隊を結成する。ところが、山崎宿(現在の千葉県野田市山崎)にて靖兵隊を離れた。上野戦争の際に負傷し、その傷がもとで1868年7月6日慶応4年5月17日)に本所猿江にあった旗本神保氏(神保相徳)の屋敷(現在は江東区森下)で死亡したとされる[1]。享年29。
経歴

1840年(天保11年)に伊予松山城下の矢矧町(中ノ丁)に生まれる。父親の名前は長次といい、母の名前は不明である。

左之助は成長して中間となるが、安政の頃出府し、江戸赴任中の松山藩士・内藤房之助の家で小使を務めていた。小使というのは中間の中でも少しは読み書きの出来る者がつとめており、後に怜悧と評される左之助はそれ相応の教養があったと思われる。

もちろん小使で派遣されたと言っても公務は一日中続くわけではなく、空いた時間には子供と遊んだりしてよく機嫌を取ってあげていた[2]。その遊んでもらっていた子供が後に史談会で原田左之助の事を語ることになる。俳人として内藤鳴雪という名で名を馳せる内藤素行であった。内藤は当時のことを明治40年6月15日に史談会で語っている。

そんな素行は自身が10歳の頃に、左之助に関するとある事件を目撃する。藩邸には中間用の大きな長屋が2軒あり、それぞれ組分けがされており、一方を「碇」、もう一方を「大の字」と称していた。その大の字の部屋で騒ぎがあったので素行が見に行ってみると「ある一人を裸体にして土間に据えて、後ろ手に縛して、口に猿轡を嵌めて、全身に水を浴びせておる」のだった。覗いていることに気づいた中間によって、素行はその場を追われてしまうのだが、水を浴びせられていたのは、「誰という事は十分にわかりませぬが、どうしても私が親しんでおる所の佐之助のようであった」ので、他の子供達に聞いてみると、左之助であることは間違いないようだった。そこで家に帰って、「今、佐之助がひどい目に遭っておる、どうにかあれを止めてやる事はできぬか」と訴えたが、家にいたのは女ばかりだったのでどうすることもできなかったという。[2]

その夜、たまたま中間より一段格上の「内用方」をつとめる人物が内藤家を訪れたので、家人が左之助が折檻されていたことを伝えると、内用方は調査を約束して帰った。その数日後、内用方は再び内藤家を訪れ、中間部屋には掟があり、左之助がそれを破ったための懲らしめだったと説明した。[2]

どうやら他から酒に酔って帰ってきて大分挙動が荒々しかったらしく、これを目上の者が制したが、左之助がかえって口答えしたためこのようなことになったようだ。[2]

ほどなく交代によって松山に帰った左之助は、藩校明教館の助教をつとめる中島隼太に若党として仕えることになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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