原田哲也
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原田 哲也
1993年日本GPにて
国籍 日本
生年月日 (1970-06-14) 1970年6月14日(53歳)

レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間1990年 - 2002年
初レース1990年 250cc 日本GP
最終レース2002年 500cc バレンシアGP
初勝利1993年 250cc オーストラリアGP
最終勝利2001年 250cc パシフィックGP
チームヤマハアプリリアホンダ
チャンピオン250cc - 1993年

出走回数勝利数表彰台PPFL総ポイント
145175521211546


原田 哲也(はらだ てつや、: Tetsuya Harada、1970年6月14日 - )は、千葉県千葉市出身の元オートバイロードレースライダー。

1993年ロードレース世界選手権GP250チャンピオン。WGP通算17勝(日本人最多タイ[1])。WGP通算表彰台55回(日本人最多)。

ニックネームは、冷静沈着なレース運びから『クールデビル』。ゼッケンは31番を好んで使用していた。
略歴
?1992年

1981年ポケバイレースデビュー。16歳で二輪免許所得後、すぐにロードレースにデビューし、1987年筑波選手権125ccチャンピオン獲得。

1988年、全日本ロードレース選手権併催のジュニア125で全戦全勝した後、国際A級昇格となりヤマハとファクトリー契約。1989年、全日本ロードレース選手権250ccクラスに参戦しA級初年度でランキング4位となる。1990年、シーズン開始時はTZ250で参戦していたが、シーズン半ばよりワークスマシンのYZR250を得る。さらにその後、シーズン途中にもかかわらず、ヤマハの方針によりYZR250から91年式TZ250の先行開発モデルにマシンを変更。岡田忠之を筆頭とするホンダNSR250勢を相手に、ファクトリー製の来年型マシンとはいえ、市販レーサーで戦い抜くという過酷なシーズンになる。1991年は、前年に原田自身が手掛けた91年式TZの改良版であるTZM250(Mはモディファイの意味)をヤマハから貸与される。フレームはTZのままだが、エンジン特性や細部に関しては原田の要求仕様になっている。1992年、全日本ロードレース選手権GP250クラスチャンピオン獲得。このときの岡田とのタイトル争いは熾烈で、第6戦の鈴鹿では全日本ロードレース選手権史上初の同着・両者優勝を記録した。
1993年

1993年より、ヤマハワークスライダーとして世界選手権参戦。マシンは原田が1992年に手掛けた93年式TZ250の改良版、TZ250Mである。開幕戦オーストラリアGP(イースタンクリーク)で、原田はラッキーストライク・スズキのRGV-Γを駆るジョン・コシンスキーとマッチレースを展開。最終ラップのストレートでスリップストリームを使い、わずかに原田がコシンスキーに先行し、初参戦で初優勝という快挙を成し遂げた。第4戦スペインGPで起きた事故で親友・若井伸之を亡くす悲劇を乗り越え、最終戦でロリス・カピロッシをポイントで逆転し、1977年に350ccクラスで片山敬済が戴冠して以来、16年ぶりの日本人[2]の世界チャンピオンになった。
1993年最終戦・FIM GP

スペインのマドリッド郊外、ハラマサーキットで迎えた最終戦・FIM GPは、急遽代替開催としてカレンダーに組み込まれたにもかかわらず、近年のシーズンにしては珍しく、客席が空席なく埋まるほどの大観衆の前で開催された。原田がタイトルを獲得するには、たとえこのレースで優勝しても、チーム・ピレリのカピロッシが4位以下にならなければタイトル獲得は成らないという非常に厳しい状況であった。カピロッシのマシンはホンダ・NSR250。対する原田のヤマハ・TZ250MはストレートスピードでNSRに後れを取っており、周囲はカピロッシ断然優位と見ていた。

序盤、レースはチェスターフィールド・アプリリアジャン・フィリップ・ルジアが優位にレースを進め、単独トップに躍り出る。この年のルジアは非常に安定しており、ここまでリタイアはマシントラブルによるものだけであった。しかしルジアはフロントからスリップダウン、転倒によりリタイアとなってしまう。代わってトップに躍り出たのは同じくアプリリアのロリス・レジアーニ、2位にロスマンズ・カネモト・ホンダのマックス・ビアッジ、カピロッシと原田は3位のポジションを争っていた。原田の後ろを走っていればタイトル決定のカピロッシではあったが、カピロッシはそれをよしとせず、表彰台に上ってのタイトル獲得を目指していた。それでも原田は粘るカピロッシをかわし、3位に躍り出る。

原田にパスされたことで焦りを感じたカピロッシは、コースを大きくオーバーラン。転倒こそ免れたものの原田から大きく離されてしまう。だが、原田がタイトルを獲得するには優勝が必須であり、これだけではカピロッシの優位は動かない。原田は前を行くビアッジとレジアーニのトップ争いに加わり、まずビアッジをパス。さらにトップを行くレジアーニを捕らえ、トップに躍り出る。レジアーニもそう簡単に先行を許さず、一度は1コーナーで原田をパスするが、原田は2コーナーで再びレジアーニをパスして、そのまま後続を引き離しにかかる。レジアーニは原田を深追いすることはせず、2位キープに回る。最終ラップ、原田がコントロールラインをトップで通過。以下レジアーニ、ビアッジという順位で通過し、カピロッシはアルベルト・プーチにも抜かれ、5番手に後退する。原田はそのままリードを守り切ってシーズン通算4勝目を飾り、1度は遠ざかった世界チャンピオンをその手に引き寄せた。

この模様は、地上波ではテレビ大阪(TVO)の千年屋俊幸が、BS放送ではWOWOW柄沢晃弘(解説・八代俊二)が現地から実況を担当し、日本のお茶の間にレースの模様を伝え、WOWOWの放送センター内では現地からの生中継で一部のファンに公開された。(このとき、TVOのブースとWOWOWのブースが隣同士だったため、WOWOWの音声に千年屋の音声が飛び込むハプニングも発生した[3]

チェッカーを受けた後も原田はチャンピオンを獲得したことを知らず、大喜びするスタッフを見て「何でそんなに喜んでいるのかな?」と思い、ピットに帰って、ようやくチャンピオンになったことを知らされた。レース後の記者会見でも、「タイトルのことは頭になく、とにかくレースに勝つことだけに集中してました。ピットに帰って来て、みんなが大騒ぎしていて、タイトルが獲れたと聞いて驚いてます」と語った。

イタリアのプレスからは2位のレジアーニにも質問が向けられた。「君が原田を抑えれば、カピロッシがタイトルを獲れたではないか?」との質問に対し、レジアーニは「今日の原田はとても速かった。だから、今日の原田は誰にも抜けなかったんだ。」と語った。表彰台で、原田はドラマチックなレースに酔いしれた大観衆の歓声に迎えられた。大観衆は東洋から来た小さな若者を、スタンドが震えんばかりの「オーレ」の大合唱で迎えた。
1994年?1998年

1994年はゼッケン1を付けてヤマハ・モーター・フランスからエントリーするが、1勝もできずにランキング7位に甘んじる。翌1995年からはウェイン・レイニー率いるマールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーの250ccクラスのエースとなる。この時期は宿命のライバル、アプリリアのビアッジと壮絶なバトルを繰り広げた。ビアッジの駆るアプリリア・RSV250は圧倒的なトップスピードを誇り、原田のヤマハTZ-Mはハンドリングには勝るものの直線で引き離されるという苦しい戦いが続いた。結局善戦しながらも、1994年から3年連続でチャンピオンをビアッジに譲ってしまう。この年、原田は「ビアッジに負けているんじゃない!アプリリアに勝てないだけだ!」とコメントしている。原田の繊細で緻密なライディングテクニックは誰もが認めるところで、ヤマハの供給するマシンの性能がアプリリアよりも劣るのは誰の目にも明らかであり、さらにチャンピオンライダーとしての待遇面のミスマッチも指摘されていたため、レース界でもこの発言をただの妬みと捉える見方は少なかった。

1996年、ヤマハは原田と共に世界タイトルを奪還するために新型YZR250の開発を決断する。YZR250は原田一人にだけ用意された「原田スペシャル」とも呼べるマシンであった。原田はこの年、第2戦で早くもYZR250を勝利に導くものの、その後は熟成不足が祟って思う様な成績を残せず、シーズン途中でヤマハとの契約解除を発表。日本国内から始まって約8年間に及んだヤマハファクトリーと原田の契約は双方合意の元に解消されるに至った。この時、急遽空席となったYZR250のシートを託されたのが、プライベーターとしてGP250に参戦していた新人のセテ・ジベルナウである。

その後、原田はアプリリアのファクトリーチームと契約を結ぶ。アプリリアは原田が世界GPにデビューした直後から彼の才能を高く評価し、原田が新人で世界チャンピオンを獲得するという偉業を達成すると、さらに獲得を強く望んだ。そして原田とヤマハファクトリーとの契約が解消されると直ちに原田獲得に動いた。原田もライバルのビアッジが乗るマシンに憧れと興味があった。


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