世界基督教統一神霊教会(統一教会)の学生組織「原理」については「原理研究会」をご覧ください。
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原理(げんり、羅: principium、仏: principe、英: principle、独: Prinzip)とは、哲学や数学において、学問的議論を展開する時に予め置かれるべき言明。そこから他のものが導き出され規定される始原。他を必要とせず、なおかつ他が必要とする第一のものである。 もともと古代ギリシャ語のΑρχη アルケーという語・概念があり、キケロがそれをラテン語に翻訳する時に「principium プリンキピウム」という語をあてたという[1]。 「principium」という語は、prin + cipiumという構造になっており、「prin」は「最初の」という意味で[注 1]、「cipi」は「cippus」と同グループ・同義の語で「石」などの意味を持つ言葉である。つまり、「principium」は「最初の石」「最初に置かれる石」といった意味の言葉である。 このprincipiumなど[注 2]の日本語訳として「原理」があてられている。 古代ギリシャ語のΑρχη アルケーは物事の根源を指した。アリストテレスはアルケーに関する先人たちの説に言及し、例えばタレースはアルケーを水とし、ヘラクレイトスは火だとし、エンペドクレースは土・水・火・空気の四大からなるリゾーマタとし、アナクシマンドロスはト・アペイロンだとした、と説明した[2]。 エウクレイデスは数学を公理論
概説
原理について、アリストテレスはつきつめた探求を行い、存在論的原理と認識論的原理を認め、存在論的原理として神、認識論的原理として、論理学のいくつかのもの(同一律、矛盾律、排中律など)を採用した[1]。アリストテレスは神を第一原因とも呼んだ。 エウクレイデスの様な数学者らは数学を公理論
各学問における原理
数学における原理
数学における原理は、自明なる真理または単なる仮説的出発点と看做された。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
この節の加筆が望まれています。 原理の哲学的研究を推し進めたのはアリストテレースで、例えば存在論的原理として神をみとめた。また彼は認識論的原理として論理学上のいくつかの原理(同一律、矛盾律、排中律など)を定立した。他に、諸学を始めるにあたってそれぞれの学問に相応しい原理を立てた。中世のスコラ学は概ねアリストテレースの思考法を踏襲しているといえる。 アリストテレースの思考法へ批判の目が向けられたのはルネ・デカルトの著書『方法序説』(1637年)の中でである。デカルトは、思考するわれの存在を第一原理として立てれば不可疑の議論が展開されるとした。 ゴットフリート・ライプニッツはデカルトの洞見を認めつつ「我思う、ゆえに我あり(cogito, ergo sum)」を相対化し、連続の原理
哲学における原理
哲学における原理を批判したのが弁証法を強調するプラトーン、ヘーゲル、マルクスなどの思想家や、現象学的哲学の一般的態度である。 古くはアルキメデスがアルキメデスの原理を見出した。 17世紀にブレーズ・パスカルが「密閉容器中の流体は、その容器の形に関係なく、ある一点に受けた単位面積当りの圧力をそのままの強さで、流体の他のすべての部分に伝える」と指摘し、これは現在パスカルの原理と呼ばれている。 17世紀、ケンブリッジ大学にはプラトン主義[注 3]を信奉する学者が多数いたが、そのひとりであるアイザック・バローの弟子となったアイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』を著わし、公理論的に構築した理論体系を示した。これは結果として古典力学体系の骨格となった。 18世紀?20世紀にかけて、自然科学者たちは、生命には無生物とは異なる《vital principle 生命原理》がある、と考えるようになり、これが生物学の方向性を決めるものになった[3]。ちょうどアイザック・ニュートンが数学的原理の上にニュートン力学という輝かしい体系を構築したように、観察によって生命原理を事実として受け入れ、それを出発点とする理論体系を構築しようと試みたのである[3]。そして《生命原理》は自然法則のひとつだと一般に考えられていた[3]。誤解のないように言っておくと、当時の科学者たちは、こうした考え方を、ニュートン力学同様に科学的な説であると考えていたのであり、主流の科学者たちがそう考えていたのである[3]。たとえば現代人が高く評価する19世紀の実験生物学者パスツールも同様の考え方をしており、発酵という現象は生命体によってのみ可能だと考えていたのである[3]。この考え方が、科学者らを生物研究へと駆り立てる原動力となっていたのである。近年ではこれをヴァイタリズム
自然哲学・自然科学における原理
18世紀?19世紀ころには「物質」を「実在」と考え信奉し原理に据えようとする者が多かったが、20世紀には、物質は対物質によって消滅してしまうことがある(対消滅が起きる)、と知られるようになり、消滅してしまうことがあるようなものは根本原理には据えられないと考えられるようになり、位置づけが低下した[4]。