原晋
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原 晋

2016年2月、首相官邸にて
選手情報
フルネームはら すすむ
ラテン文字Susumu HARA
国籍 日本
競技陸上競技
種目中距離走長距離走
所属中国電力
大学中京大学
生年月日 (1967-03-08) 1967年3月8日(57歳)
出身地広島県三原市
居住地東京都町田市
身長176cm
公式サイトhttps://harasusumu.jp/
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原 晋(はら すすむ、1967年3月8日 - )は、日本陸上競技指導者大学教員タレントコメンテーター評論家スポーツ解説者コンサルタントパネリスト司会者、元陸上選手、元中国電力営業職員。妻は青学大町田・寮母の原美穂[1][2]

青山学院大学陸上競技部男子長距離ブロック監督青山学院大学相模原キャンパス・地球社会共生学部・地球社会共生学科教授[3][4]関東学生陸上競技連盟・駅伝対策委員長[5]GMOアスリーツ・元アドバイザー[6][7]埼玉医科大学・客員教授[8]、スポーツ産業化推進議員連盟・アドバイザリーボード[9]アディダスキャンペーンアンバサダー[10]、プロ・フィッツ名誉監督[11]、HLBスポーツ・顧問[12]バディ企画研究所社外取締役[13]、アスリートキャリアセンター・会長[14][15]三重県桑名市連携協定[16]日本トライアスロン連合・理事[17][18]、ジョリーグッド・社外取締役[19]神奈川県相模原市・スポーツ宣伝大臣[20]熊本県球磨郡水上村・アドバイザー[21]

2015年正月第91回東京箱根間往復大学駅伝競走では、青山学院大学の監督として史上初の往復路・総合優勝を果たす。それ以降も同陸上部は箱根駅伝競走で合計7回の総合優勝を達成し、「大学駅伝界の名将」として知られている[22]。それと同時に講演会講師の活動[23][24][25][26][27][28]と、数多くのマスメディア出演等を頻繁に行っている[29][30][31][32][33]

原 晋
(はら すすむ)人物情報
生誕 (1967-03-08) 1967年3月8日(57歳)
日本広島県三原市
居住東京都町田市
国籍 日本
出身校中京大学体育学部
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科
配偶者原美穂
学問
研究分野組織マネジメント
リーダーシップ
スポーツマネジメント
スポーツふるさと創生
研究機関青山学院大学
学位修士スポーツ科学)(早稲田大学大学院)
主な業績東京箱根間往復大学駅伝競走青山学院大学陸上部の監督として総合優勝通算7回
主要な作品「フツーの会社員だった僕が、青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉」など
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経歴
陸上競技、現役時代

瀬戸内の古い港町である広島県三原市糸崎町松浜東の出身[34][35]。小学生の頃から、ソフトボールは4番でピッチャー、相撲は主将と運動万能であった。原が小2の頃、漁港で遊んでいる時に不慮の事故で足を複雑骨折し、長期入院。これを機にリハビリを兼ねて、町内を走るジョギングを始めた。なお、幼馴染みによると、雨の日でも休まずに毎日走っていたそうで、自分で決めた事はやり通す、意志の強い少年だったとのことである。

中学校に入学後、野球部に入部するか迷っていたが、幼稚園から彼を知る近所の同級生からの勧めもあって陸上部に入部し、長距離走を始めた。中学1年生のマラソン大会では上級生を抑えて校内1位になり、中学3年生の県総体1500m競走では2位に入賞した。広島県立世羅高等学校3年生時の1984年には、主将として第35回全国高等学校駅伝競走大会に出場。4区で6人抜きの区間2位と総合2位に貢献した[36](優勝校は報徳学園高校)。

世羅高校OBが陸上競技部の監督を務めていた中京大学に進学し、3年時に日本インカレ5000メートル3位[37]。但し、原曰く「大学時代の1・2年生の頃はパチンコと飲み会に明け暮れてしまい、私が希望した実業団からは門前払いでした」と、中途半端だった旨を明かしている[38]

1989年、郷里の中国電力(広島県広島市)に入社し、陸上競技部の創設に参加[35]1993年には主将として、全日本実業団駅伝への初出場にも貢献した。しかし捻挫などの故障が完治せず、さらには監督との軋轢などで成績不振が続いた原因により、入社5年目の1995年に27歳の若さで選手生活を現役引退[38]

競技引退後は10年間、中国電力でサラリーマン生活を送っていた[35]。同期が本社で活躍する中、配属されたのは支店の下の山口県徳山市(現・周南市)の営業所[34][39]。ここで蓄熱式空調システム「エコアイス」を社内で一番売り上げて評価を上げ、新規事業を立ち上げた[34]。「伝説の営業マン」を自称する[39]。この間、中国電力陸上競技部は坂口泰監督の手腕と有力選手の加入により実業団トップチームへの道を歩む事となった。
青学大陸上部・監督時代
箱根駅伝本選へ33年ぶり出場・41年振りシード権獲得

箱根駅伝の出走経験はなく、出場校OBではなかったが、36歳の時に母校・世羅高校陸上競技部の2年後輩、青山学院大学陸上競技部OBであり中国放送勤務の瀬戸昇から大学に推薦され[40][41]2004年に中国電力を突如退職の後、青山学院大学・陸上競技部監督に就任した[42][43]。当初の条件は3年契約の嘱託職員。妻のためにも、ダメになった時は中国電力に籍を置いて出向という形を取れないかという話を親会社に持ち掛けたが、そんな都合のよい話はないといって断られる。そのやりとりが、勤務先である子会社、ハウスプラス中国住宅保証の吉屋文雄社長の耳にも入り、吉屋から「箱根駅伝で出場を狙うのなら、それなりの覚悟がいる。覚悟を示さなければ、部員たちもついてこない。退路を断て。」という言葉をもらい、きっぱり退路を断ち、覚悟を持って3年契約の嘱託職員として監督に就任した[44][45][46][47]

なお、妻の美穂は仕事を始めたばかりで、突然「中国電力を退社し、青学陸上部監督になって箱根駅伝で優勝を目指す。ついては夫婦で寮に住み込むことになる。」と言われて吃驚仰天、猛反対したという[48]

青学大・陸上監督就任から間もない頃、駅伝強豪校に行くと「大学は素晴らしいけれど、駅伝は箱根に出ていないでしょう」と断られ、選手のスカウティングには苦労した[35][42]。だが、自身の出身校である世羅高校と出身大学の系列校・中京大中京高校からは継続的に好選手を入部させていった[49]。「箱根駅伝に3年で出場、5年でシード権、10年で優勝争い」と宣言したため、就任3年目の2006年第82回箱根駅伝予選会での16位惨敗に大学幹部から「話が違う」と責められ、長距離部門も廃部寸前になった時期もあった[34][50]

迎えた就任5年目の第84回箱根駅伝2008年)で関東学連選抜の監督としてチームを総合4位に導くと[51]、箱根駅伝出場を目指す大学の強化支援もあって[52]第85回箱根駅伝2009年)記念大会に於いては、史上最大のブランクとなる33年ぶりに同陸上部を箱根駅伝出場に導いた(22位)[52][53]

第86回箱根駅伝2010年)大会では8位に躍進させ、41年ぶりのシード権獲得をもたらす[54]

第87回箱根駅伝2011年)の復路ではアンカーの10区において、青学大を含めた合計4校がゴール直前迄熾烈なシード権争いを展開。結果8位の日本体育大学とは1秒差の9位で、2年連続でシード権獲得となった(10位は3秒差に國學院大学、11位に國學院大から僅か3秒の差で遅れた城西大学がシード権落選となった)[55]

第88回箱根駅伝2012年)では、往路・復路共に7位ながら青学大として当時最高位となる総合5位に入った。2012年10月、第24回出雲駅伝では青山学院大学として「大学三大駅伝」において、初めての総合優勝を達成する[56][57]


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