原方刺し子(はらかたさしこ)は、山形県米沢藩の下級武士「原方衆(はらかたしゅう)」の婦女のあいだから、生活苦の中でも士族の誇りを忘れないために生まれ、昭和初期まで受け継がれた裁縫技術による雑巾である[1]。「花雑巾(はなぞうきん)[2]」、「上杉花ぞうきん[3]」ともいい、その技術そのものをさして「米沢刺し子[4]」ともいう。
士族の証である文様を刺し入れた足ふき用の雑巾を玄関に置き、貧困から田畑を耕す一族の男衆が田から帰宅した際や、来客に、足をのせさせる際に本来の身分を思い起こさせるために用いられた[1]。 1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いで敗戦した西軍に関与していた上杉景勝は、会津若松120万石の拠点から、6,000人余りの家臣とともに米沢藩30万石に減封された[1][3][5]。当時の米沢は800戸程度からなる田舎であり、家臣の直江兼続が中心となって城下町を構築したものの、すべての家臣を城下に収容することは不可能だった[3][5]。そのため、下級武士は郷士となり、1609年(慶長14年)頃までに、南原や花沢等町の四方の原野に聚落を築いて住まうことを余儀なくされた[6][7]。これら下級武士は「原方衆(原方奉分人)」とよばれ、会津から移住した武士の約3分の1、約8,000人が原方衆となった[3][7]。 原方衆は、平時は荒野を開拓して作物を育てる農民さながらの暮らしを送りつつ、月に2回米沢城に出勤して武芸を練り[3]、城の防衛や河川の氾濫や街道の防備にあたる屯田兵となって食い扶持を稼いだ[1][3][6]。このような郷士聚落の例は全国的にも稀であり、薩摩藩の麓聚落
由来
原方衆の誕生
1664年(寛文4年)、4代目の上杉綱勝が世継ぎを残さず急死すると、米沢藩はお家断絶を免れるため、会津藩の祖である保科正之の仲介により吉良義央の子を養子に迎える[8]。所領は15万石に半減して藩財政はますます困窮し、城下の家臣の俸禄も半減した[8][9]。このため、士族のなかではその身分を商家に売り払うことが流行し、圧政に耐えかねた農民の間には逃亡や間引き[注 1]が増加した。さらには1720年(享保5年)の凶作、1755年(宝暦5年)から3年間続いた大凶作が、藩財政に甚大な影響を及ぼした[8]。下級士族の大半が町民や農民に身を落とし、名ばかりの士族が増えると、士族意識も低下した[8]。
米沢藩は文武両道の子弟教育に熱心であり、藩内に7カ所の武芸所を設け、子弟に厳しく武芸を伝え、武士道を説いていた[6]。武士道とは、武芸によって功名を立てて子孫繁栄を図り、家名や家柄を尊び、主君に忠義を尽くして出世することを人生の目標としたものであり、身分が下がった場合も家運再興のために名誉回復を図ることを士族の嗜みとしたものである[8]。しかし、経済的理由によりそれまで蔑視してきた農工商の位置に自ら身を落とすこととなった下級武士たちは、士族の権威が失墜して体面を保つことも難しくなってゆくと、精神的な支えであった武士道も失われていった[8]。 身分的には武士でありながら、生活実態から武士の心を失っていく士族に対し、逆に士族意識を固めたのが、原方衆の妻女らであった[10]。夫とともに農耕に従事するも、妻女たちももとは越後時代の名将の血筋にあたる身分の高い者も多く、お家再興にかける武士道精神は婦女子にも育まれていた[7][10]。
婦女子の教養
米沢藩は、4代目綱勝の死後の減俸や度々の飢饉を乗り越えるため、藩として幾度か大きな倹約令を敷いた[9]。衣類については、合羽を着ること、風呂敷を持つことを禁じ、老人以外は足袋を履くことや塗り下駄も贅沢品とみなされ、禁じられた[9]。このため、人々は家にあがる際には門前の川を石を置いて堰き止め、雑木の下駄ごと足を洗う習慣があった[9]。どの家の戸口にも、濡れた足を拭うための雑巾が置かれていて、家人も客人も、家にあがる誰もが必ず目にするそれに、武士の身分を誇示したものである[10]。
妻女らは上杉氏一門独自の図柄を考案し、区画を割ったその中に、多様な刺し文を縫い入れ、その種類の多さを競った。数十、数百もの刺し文技術を知るということは、その妻女は十二単衣も縫えるだけの技量をもつことを意味し、それを誇示したものと考えられている[11]。 布地に方眼を描き、縦・横・斜め・くぐり刺しなど、多様な技法を用いて模様を描く[4]。 「亀甲」か「松皮菱
特徴
意匠