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日本の政治家原 敬はら たかし
正装に当たる大礼服を着用した原
生年月日1856年3月15日
(安政3年2月9日)
出生地 日本・陸奥国岩手郡本宮村
(現:岩手県盛岡市)
没年月日 (1921-11-04) 1921年11月4日(65歳没)
死没地 日本・東京府東京市麹町区
(現:東京都千代田区)
出身校司法省法学校中途退学
前職大阪毎日新聞社長
所属政党(立憲帝政党→)
立憲政友会
称号正二位
大勲位菊花大綬章
配偶者原貞子
原 敬(はら たかし、1856年3月15日〈安政3年2月9日〉- 1921年〈大正10年〉11月4日)は、日本の外交官、政治家。
位階勲等は正二位大勲位。幼名は健次郎(けんじろう)。号は一山、逸山(いつざん)。「はら けい」と音読みが用いられる場合もある(原敬記念館、『原敬日記』など)。
外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。
『郵便報知新聞』記者を経て外務省に入省[1]。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。外務大臣時代には外務官僚として重用されたが退官。立憲政友会の発足に参加して政界に進出。1918年(大正7年)に総理大臣に就任。平民であり[2]、爵位をもたなかったことから「平民宰相(へいみんさいしょう)」と渾名された[3]。1921年(大正10年)11月4日、東京駅で暗殺された(原敬暗殺事件)。
生涯
生い立ち生家(岩手県盛岡市)
原家は近江浅井氏の流れを汲み、江戸期に入ってから南部氏に仕えた家系である[4]。祖父の原直記は盛岡藩家老、父の原直治は盛岡藩側用人を務めた[5]。原家の禄高は、父の原直治が家督を相続した時点で227石[5]。1856年3月15日(安政3年2月9日)に父直治42歳・母リツ32歳の子として生まれ、健次郎と名付けられた[4]。慶応元年(1865年)に直治が没し、家督を継いでいた兄平太郎はわずか12歳であった上に、戊辰戦争以降の盛岡藩の苦境もあり家禄が10分の1まで減らされたため、生活は一気に苦しくなった[6]。リツは菓子商売などで生計を立てることになった。原の上京費用もこうして捻出したという。
明治3年(1870年)1月、盛岡藩の藩校「作人館」に入った。翌年12月には上京し、那珂梧楼の私塾を経て旧藩主[注釈 1]南部氏が運営する共慣義塾に入学したが長く続かず、旧会津藩士岸俊雄の私塾苟新塾に移った[7]。しかし盛岡の家が盗難にあい、学費に困った原は明治5年(1872年)7月に一旦郷里に戻った。この際兄弟全員が改名し、健次郎も「敬」とあらためた。これは『近思録』からとったもので、自ら選んだものであった[8]。9月には海軍兵学寮を受験するが失敗し、冬にはフランス人宣教師が運営する食費と宿泊費が無料のラテン学校に移った[9]。翌明治6年(1873年)4月には受洗し、「ダビデ」の洗礼名を受けた。また横浜で活動していたフェリクス・エヴラール神父のもとに居を移し、互いに漢書やキリスト教書を教えあった[9]。翌年から布教活動に加わり、1年間新潟に滞在した[10]。
1875年(明治8年)5月、エヴラールと別れて原は盛岡に戻った。当時原家は家禄を奉還し、その際に受けた一時金をもとに養蚕を手掛け、再び原を遊学させる余裕が生まれていた。再度の上京に伴い、原は分家して戸主となり、平民籍に編入された。原は「分家帰商」[注釈 2]と手記に残し、後年にも宿帳に「岩手県平民」と大書して悦に入っていたというが[12]、分家の理由は明確にされておらず、原の嗣子原貢は養子縁組を断るため、前田蓮山は戸主となれば徴兵を逃れられるからではないかとしている[13]。