原恵一
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はら けいいち
原 恵一
原恵一(2011年撮影)
生年月日 (1959-07-24) 1959年7月24日(64歳)
出生地 日本群馬県館林市
職業

映画監督

アニメーション監督

アニメーション演出家

脚本家

ジャンル

テレビアニメ

アニメーション映画

実写映画

活動期間1982年 -
主な作品
アニメーション映画
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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦

河童のクゥと夏休み

カラフル

百日紅 ?Miss HOKUSAI?

かがみの孤城
実写映画


はじまりのみち
テレビアニメ


エスパー魔美

クレヨンしんちゃん

 受賞
日本アカデミー賞


優秀アニメーション作品賞

2008年河童のクゥと夏休み

2011年カラフル

2016年百日紅 ?Miss HOKUSAI?

2023年かがみの孤城

その他の賞
文化庁メディア芸術祭
アニメーション部門大賞
2002年クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦
2007年河童のクゥと夏休み毎日映画コンクール
アニメーション映画賞
2002年クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦
2007年河童のクゥと夏休み
2010年カラフル
2015年百日紅 ?Miss HOKUSAI?藤本賞
奨励賞
2002年クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦アヌシー国際アニメーション映画祭
長編作品 特別賞
2010年カラフル
長編作品 審査員賞
2015年百日紅 ?Miss HOKUSAI?TAMA映画祭
特別賞
2013年はじまりのみち紫綬褒章
2018年

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原 恵一(はら けいいち、1959年昭和34年)7月24日 - )は、日本アニメ監督群馬県館林市出身。2007年にシンエイ動画を退社後はフリーランス[1]

世界35以上の映画賞を受賞し、国内外で高く評価されている[2]
来歴
生い立ち

群馬県の駄菓子屋を営む家庭に生まれる[3]。両親と妹が1人いる4人家族の長男[3]

子供の頃からの夢だった「絵を描く」仕事に就くため、東京デザイナー学院[注釈 1]アニメーション科へ進学する[1]。しかし、ここで絵の上手な生徒の多さに圧倒され、そのことが演出への道を進むきっかけとなったという。アニメ学科に通いながらもアニメ作品は自ら進んでは見ず、アニメ好きが好んで見るようなアニメとも距離を置いていた。一方、『ぴあ』を片手に名画座に通いつめて実写映画は見ていた。
CM制作会社時代

東京デザイナー学院卒業後、CM制作会社のアドックシステムズに1年間勤務する[4]。卒業制作に追われてアニメ制作会社の就職活動が疎かになってしまい、就職先が決まらないまま卒業を迎えてしまった。そこで、学院の就職課に紹介された東京ムービーの会社見学で勝手にコースから抜け出し、当時同社で『ルパン三世』を演出していたアニメーター御厨恭輔に入社を頼む[5]。御厨から「自分は社員ではないので東京ムービーへの就職は後押しできないが絵コンテを描いてくれば個人的に仕事を紹介できるかもしれない」と言われ、『ルパン三世』の完成台本を渡されると、1、2週間ほど後にそれを基に描いた絵コンテを持参した。そして、その数週間後に御厨から紹介されたアドックシステムズへ入社した[5]。就職後は荏原製作所の企業広報映画やサンヨー食品などのコマーシャル制作に携わる制作アシスタントとして1年半ほど勤務した。しかし、肉体労働やクライアントの尊大な要求に嫌気が差しているのを社長の黒川慶二郎に感づかれ、「君はアニメがやりたいんだね」とシンエイ動画を紹介される[注釈 2]
シンエイ動画時代

1982年4月にアニメ制作会社シンエイ動画に入社[1]。『怪物くん』班に配属されて制作進行を担当していたが、その後番組の『フクちゃん』参加中、欠員が出た『ドラえもん』班に演出助手として異動。

1984年、チーフディレクターがもとひら了から芝山努に交代した際、社内の演出助手に責任分担させるため、安藤敏彦と共に『ドラえもん』班の演出に昇格。もともと藤子・F・不二雄の原作漫画が好きだった原は、『ドラえもん』をただの子供向けの作品ではなく、自分の感じる楽しさをプラスアルファしたものにしようと毎回実験的な試みをした[4]。原の手掛けた『ドラえもん(第2作第1期)』の担当回は斬新な演出[注釈 3]や普段の回より凝った構図で注目されるようになった[注釈 4]。しかし一方で、社内ではその実験的な作風が「やりすぎだ」「これは『ドラえもん』じゃない」という反発も呼び、演出の手腕を疑問視されて作画スタッフと対立したこともあった[4]。はっきりと「原さんの作品はやりたくない」と言われたり、ケンカになったりしたという[4][注釈 5]

1987年、『エスパー魔美』のチーフディレクター(監督)に抜擢される[6]。制作決定時に演出の一人として参加するつもりで手を挙げたところ、プロデューサーから指名された[4]。当時、20代後半でのチーフへの抜てきは異例のことだったので、原は「挑戦的なタイトルなので若い人にやらせてみようということだったのではないか」と推察している[7]。しかし、原が作りたい『エスパー魔美』と、テレビ局やプロデューサーが目指す『エスパー魔美』にはズレがあったので、苦労することになる[4]。原は超能力をあまり前面に出さず、主人公の魔美を平凡な中学2年生の女の子として描きたかったが、それでは彼らにとって画作りが地味すぎた[4]。さんざん「もっと派手にして欲しい」と言われて嫌気がさし、第1話のオンエア前に辞めたくなっていたが、何とか我慢して作り続けていると、出来上がった作品を見たプロデューサーやテレビ局の人間たちも次第に納得していってくれた[4]。また第96話では初めて脚本を手掛けた[8]

1988年、『エスパー魔美 星空のダンシングドール』で映画監督デビュー[9]。原とメインライターとプロデューサーとで考えたオリジナルのプロットのいずれも原作者の藤子・F・不二雄はあまり気に入らず、「原作を元に『リリー』という古いアメリカ映画のような作品を作ってほしい」と言われた[4]。原はメインスタッフたちとその作品を鑑賞し、それを自分なりに生かして制作した[4]

『エスパー魔美』終了後、後番組『チンプイ』のチーフディレクターを打診されていたが、退社を覚悟で休職を申し出る[注釈 6]。当時の専務である別紙壮一の配慮で休職が認められ、『チンプイ』の絵コンテを数本切った後、約10ヶ月休職する[10][11]。復帰後は『チンプイ』の演出・絵コンテを少し手がけてから後番組『21エモン』の監督となるが、人気が今ひとつで39話で打ち切りとなった。

1992年の番組開始当初から、アニメ『クレヨンしんちゃん』の制作に各話演出や絵コンテでローテーション入り[12]。1993年からスタートした劇場版シリーズには共同脚本[注釈 7]や共同演出で参加した[13]

1996年のテレビシリーズ10月放送分より初代監督の本郷みつるの後を引き継いでチーフディレクターに就任し、劇場版も1997年の『暗黒タマタマ大追跡』から監督を務めるようになる[9][12]

2001年の『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は絶大な支持を得て、興行収入14.5億円と3作目以降の作品で最高益を記録した[14][15]。それだけでなく、映画マニアやプロの評論家といったそれまで『クレヨンしんちゃん』に全く注目していなかった層も振り向かせることにも成功した[14][15]。制作過程で完全に子供向けアニメの枠組みをはみ出してしまった原は、観客に否定されてクビになることも覚悟していたが、逆に大人にも子供にも受け入れられ、その批評性が高い評価を受けた[16][17]。また「大人も泣ける映画」としても大きな話題となったが、自身はメインの観客層である子どもたちが画面に集中していたことが大きな手応えとなったという[14]

2002年の『嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』では、前作のヒットの追い風もあり、さらに挑戦的な作品作りができるようになった[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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