原小次郎
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 凡例京 小次郎
時代平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕不明
死没建久4年8月20日1193年9月24日[1]
別名原小次郎[2]
父母父:左衛門尉仲成[3]、母:満功御前[4]
兄弟小次郎、二宮朝忠の妻[4]
異父兄弟:曾我祐成曾我時致、律師
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京小次郎(きょう の こじろう)は、鎌倉時代初期の武士曾我兄弟の異父兄弟。

北条本『吾妻鏡』や『曽我物語』では京の小次郎とされるが、より史料価値の高い島津本や吉川本の『吾妻鏡』では原小次郎とされる[5]
概要

吾妻鏡』によると、建久4年(1193年)5月28日の曾我兄弟の仇討ちの後、8月17日に源頼朝が謀反の疑いで源範頼を処罰した際にそれに連座して20日に処刑された[1][6]。菱沼一憲は小次郎が範頼の郎党であったと推測している[7]

曽我物語』では、父は伊豆目代左衛門尉仲成[注 1]、母は同国在庁官人工藤茂光の孫娘という[注 2]。幼少のころに父とともに伊豆を離れた[4]。異父兄弟の縁をもって曾我祐成から仇討ちの助力を請われたが、小次郎はその無謀を説いて断り、曾我祐信の妻となっていた母にのみ陰謀を打ち明けた[9]。範頼の家人の謀反[注 3]を防ごうと由比ヶ浜で戦傷を負い、その5日後に死去したとされる[10]。その遺骨は小次郎の妾によって善光寺に葬られた[11]。その翌年、曾我祐成の妾だった虎御前が兄弟の遺骨を善光寺に納めた帰路、松井田宿にいた小次郎の妾と邂逅したという[12]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 伊豆守源仲綱の乳兄弟にあたるという[3]
^ 近世以降、満功御前と呼ばれる。実父は横山党の武士・横山時重であるという考察がある[8]
^ 謀叛人の名を真名本は「条義三郎」、仮名本は「ゆらの三郎」ないし「ゆうき三郎」とする。この者は「人の妻敵(他人の妻の姦通相手)」であったという[10]。なお『吾妻鏡』によれば、範頼処罰の翌日にその家人の橘太郎左衛門尉、江滝口、梓刑部丞らが討たれている[1]

出典^ a b c 『大日本史料』, p. 412.
^ 『現代語訳 吾妻鏡6 富士の巻狩』 2009.
^ a b 『曾我物語』, p. 176.
^ a b c 『曾我物語』, p. 175.
^ 『現代語訳 吾妻鏡6 富士の巻狩』 2009, p. 29,186.


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