原子モデル
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この項目では、科学における原子の歴史的モデルについて説明しています。原子が結合して分子を形成する過程を研究する歴史については「分子論の歴史」を、原子論から発展した近代的な原子観については「原子物理学」を、世界は基本的な不可分の構成要素で成り立っているとする自然哲学の概念については「原子論」をご覧ください。
現在の原子の理論モデルでは、高密度の原子核と、その周りを取り囲んでいる確率的な電子の「雲」から構成されている。

科学において、原子論(げんしろん、: atomic theory)は、物質は原子という粒子から構成されているとする科学理論で、原子模型(げんしもけい、: atomic model)は理論に基づく原子のモデルである。その起源は、原子論(アトミズム(atomism))として知られる古代の哲学的伝統にまでさかのぼる。この考えによれば、物質の塊をより小さな断片に分割してゆくと、やがてそれ以上小さく分割できないところに到達する。古代ギリシャの哲学者は、このような仮説的な究極の物質の粒子を「切られていない」という意味の「アトモス(atomos)」と呼んだ。

1800年代初頭、科学者のジョン・ドルトンは、化学物質が重量の比で結合したり別の物質に分解したりするように見えることから、各化学元素は最終的には一定の重さの小さな不可分な粒子からできていることに気がついた。1850年の少し後、物理学者たちは気体が粒子でできていると仮定して、気体の挙動を数学的にモデル化した「気体および熱の運動論」を展開した。20世紀初頭に、アルベルト・アインシュタインジャン・ペランは、ブラウン運動(水中の花粉粒の不規則な運動)が水分子の作用によって起こることを証明し、この第3の証拠によって、原子や分子が実在するかについて科学者の間に残っていた疑念を封じた。19世紀を通じて、科学者の中には、原子の証拠は間接的であり、原子は実際には存在しないが存在するように見えるだけかもしれないと警告する者もいた。

20世紀初頭までに、科学者は物質の構造についてかなり詳細で正確なモデルを開発し、通常の物質を構成する目に見えない小さな粒子をより厳密に分類するようになった。現在では、原子は、化学元素を構成する基本粒子として定義されている。20世紀になり、化学者が「原子(atoms)」と呼んでいた粒子が、実際にはさらに小さな粒子(亜原子粒子、subatomic particles)の集合体であることが物理学者によって発見されたが、科学者は慣習的にその名前を使わなかった。現在では、素粒子(elementary particle)という言葉は、実際に分割できない粒子を指して使用されている。
歴史
哲学的原子論詳細は「原子論」を参照「第一質料」も参照

物質が個別の単位で構成されているという考え方は非常に古く、ギリシャやインドなど多くの古代文化に見られる。「分割できない」という意味の「アトム(atom)」(ギリシャ語: ?τομο?; atomos)という言葉は、ソクラテス以前のギリシャの哲学者であるレウキッポスとその弟子デモクリトス(紀元前460年頃-370年頃)によって作られ造語である[1][2][3][4]。デモクリトスは、原子の数は無限であり、創造されることもなく、永遠であるとし、物体の性質はそれを構成する原子の種類によるものであると説いた[2][3][4]。デモクリトスの原子論は、後のギリシャの哲学者エピクロス(紀元前341-270)や、ローマのエピクロス派の詩人ルクレティウス(紀元前99-55頃)によって洗練され、詳述された[3][4]中世前期には、原子論は西ヨーロッパではほとんど忘れ去られていた。12世紀になり、新たに再発見されたアリストテレスの著作の中で言及されたことで、西ヨーロッパで再び知られるようになった[3]。アリストテレスが唱えた物質感は、物質は連続的で無限であり、無限に細分化できるというものであった[5][6]

14世紀になり、ルクレティウスの『事物の本性について(英語版)(De rerum natura)』や、ディオゲネス・ラエルティオスの『著名な哲学者たちの生涯と意見(Lives and Opinions of Eminent Philosophers)』など、原子論に関する主要な著作が再発見され、この主題に対する学問的関心が高まった。しかし、ヨーロッパのほとんどの哲学者は、原子論はエピクロス主義の哲学と結びついており、正統なキリスト教の教えに反するとして、原子への信仰を受け入れなかった[3]。フランスのカトリック神父ピエール・ガッサンディ(1592-1655)は、エピクロス派の原子論に修正を加えて復活させ、原子は神によって創造されたもので、極めて数は多いが無限ではないと主張した。ガッサンディは、原子の集合体を表すのに「分子(molecule)」という言葉を初めて使った[3][4]。ガッサンディが修正した原子論は、フランスでは医師のフランソワ・ベルニエ(英語版)(1620-1688)、イギリスでは自然哲学者のウォルター・チャールトン(英語版)(1619-1707)によって広められた。化学者のロバート・ボイル(1627-1691)と物理学者のアイザック・ニュートン(1642-1727)も原子論を擁護し、17世紀末には科学界の一部で原子論が認められるようになった[3]
ジョン・ドルトンジョン・ドルトンの肖像

18世紀の終わり頃、原子論の概念に言及しない、化学反応に関する2つの法則が出現した。1つ目は「質量保存の法則」で、アントワーヌ・ラヴォアジエの研究と密接に関連し、化学反応における全質量は一定である(つまり、反応物と生成物の質量は同じである)というものである[7]。2つ目は「定比例の法則」である。1797年にフランスの化学者ジョゼフ・プルーストが最初に確立したこの法則は、ある化合物が構成する化学元素に分解されるとき、元の物質の量やその由来に関わらず、構成元素の質量は常に同じ重量比になるというものである[8]

ジョン・ドルトンは、この先行研究を調査し発展させ、後に「倍数比例の法則」という新しい考え方を提唱した。同じ2つの元素を組み合わせて、さまざまな化合物を作ることができる場合、それらの化合物における2つの元素の質量の比は、小さな整数で表わされるというものである。これは、当時のドルトンらをはじめとする化学者たちが観察した化学反応によく見られる傾向であった。

例1 - 酸化スズ: ドルトンは2種類のスズの酸化物を同定した。一つは灰色の粉末で、スズ100に対して酸素13.5を含んでいる。もう1つの酸化物は白い粉末で、スズ100に対して酸素27を含んでいる[9]。13.5と27の比率は1:2である。これらの酸化物は、現在ではそれぞれ酸化スズ(II)(SnO)、酸化スズ(IV)(SnO2)として知られている。

例2 - 酸化鉄: ドルトンは、2種類の鉄の酸化物を同定した。一つは黒い粉末で、鉄100に対して酸素約28を含んでいる。もう一つは赤い粉末で、鉄100に対して酸素42を含んでいる[10]。28と42の比率は2:3である。これらの酸化物は、現在では酸化鉄(II)(ウスタイトと呼ばれる)と酸化鉄(III)(錆の主成分)として知られている。それぞれの科学式は FeO と Fe2O3 である。

例3 - 窒素酸化物: 窒素の酸化物は3種類あり、窒素140 gに対して酸素はそれぞれ80 g、160 g、320 gで、比率は1:2:4である。それぞれ、亜酸化窒素(N2O)、一酸化窒素(NO)、二酸化窒素(NO2)である。

このように、化学物質は任意の量で反応するのではなく、基本的な不可分の質量単位の倍数で反応することを示唆している。

ドルトンは著作の中で、「原子」という言葉を、今日の慣例のように元素を厳密に指すのではなく、あらゆる化学物質の基本的な粒子を指す言葉として使用した。また、ドルトンは「分子」という言葉を使わず、代わりに「複合原子(compound atom)」、「基本原子(elementary atom)」という言葉を使っていた[11]。ドルトンは、化学元素はそれぞれ一種類の単一の原子から構成され、化学的な手段によって変化させたり破壊することはできないが、結合してより複雑な構造、つまり化合物を形成することができると提唱した。


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