原城
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長崎県
城郭遺構
別名日暮城
城郭構造梯郭式平山城(海城[注釈 1]
天守構造天守台相当の櫓台あり
築城主有馬貴純
築城年明応5年(1496年
主な改修者有馬晴信
主な城主有馬氏
廃城年元和2年(1616年
遺構石垣、空堀、虎口[注釈 2]
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度37分59.9秒 東経130度15分23.3秒 / 北緯32.633306度 東経130.256472度 / 32.633306; 130.256472座標: 北緯32度37分59.9秒 東経130度15分23.3秒 / 北緯32.633306度 東経130.256472度 / 32.633306; 130.256472
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原城(はらじょう・はるのじょう[注釈 3])は、長崎県南島原市南有馬町乙にあった日本の城。国の史跡。別名、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城。2018年6月30日に世界遺産登録が決まった長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成遺産である[1][2]
沿革

島原半島の南部に位置し、明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純によって、有明海に張り出した丘陵に築かれた。16世紀末期に文禄・慶長の役で朝鮮半島の倭城や肥前名護屋城の知識を得た有馬晴信によって居城として整備された。この時の改修工事によって瓦葺きの屋根を持った織豊系城郭として生まれ変わり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などが築かれた。現在残る石垣や枡形、本丸天守台はこの改修時のものである。城の完成後には日野江城が隠居城として使われる予定であった。

原城本丸大手門跡からは2004年(平成16年)の調査で8個の巨大礎石などが発見されており、当時最先端だった近畿地方の築城技術が用いられていたと考えられている[3]

原城は近世城郭として整備されたにもかかわらず、本拠の移転は沙汰止みとなる。

有馬氏日向国延岡城に転封となった後の、元和2年(1616年)に松倉重政が日野江城に入城するが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城した。この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたとされるが実際には石垣や多くの建築物が残されたと推測される。[注釈 4]

寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にかけての島原の乱では一揆勢が廃城になっていた原城に立てこもり決戦の地になった[3]。島原の乱の後、幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っている。原城の有明海側には抜け穴跡があり、1963年(昭和38年)の豪雨で陥没した後に郷土史家らによって調査されたが、この抜け穴は原城築城の際に造られたものか島原の乱の際に掘られたものかは分かっていない[3]

1938年昭和13年)、原城跡は国の史跡に指定された。発掘調査の際には、惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、クルスの他、万人坑が出土している。本丸には天草四郎の居館とされる遺構も見つかっている。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(188番)に選定された。
島原の乱詳細は「島原の乱」を参照

元和の一国一城令で廃城となった原城で、寛永14年(1637年)に「島原の乱」が勃発した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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