厚岸郡(あっけしぐん)は、北海道(釧路国)釧路総合振興局の郡。
人口13,580人、面積1,162.24km²、人口密度11.7人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)
以下の2町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町に川上郡標茶町の一部(チャンベツ地区)、根室市の一部(長節・昆布盛・浜松・落石東・落石西および別当賀・初田牛の各一部[1])を加えた区域にあたる。 江戸時代の厚岸郡域は、寛永年間に松前藩によってアッケシ場所が開かれていた。 江戸時代以前から明治時代初頭の交通について、陸上交通は、沿岸部沿いに渡島国の箱館から千島国方面に至る道の途上となっており、寛政11年から12年にかけて釧路 - 仙鳳趾(せんぽうし)間9里(35.3km)が開削され、文化5年には厚岸在住の士丹羽金助が箱館奉行の許可を受け蝦夷を雇って厚岸 - 仙鳳趾間約5里半(21.6km)を開削している。これら西の釧路郡から厚岸郡に至る道は、現在の道道根室浜中釧路線の前身である。厚岸以東については厚岸から厚岸郡琵琶瀬(現厚岸郡浜中町)に至る7里19町(29.6km)、琵琶瀬から根釧国境を越え根室国根室郡初田牛(現根室市)までの7里28町(30.5km)の道があり、このほか厚岸から円朱別(ノコベリベツ、現厚岸郡浜中町)までの6里18町(25.5km)、円朱別から厚岸郡姉別(アンネベツ、現浜中町)まで5里6町(20.3km)の道や、厚岸から姉別間は厚岸から厚岸湖を経て別寒辺牛(ベカンペウシ)川をさかのぼり、辺寒辺牛(現厚岸郡厚岸町)で上陸して姉別に至る経路、厚岸郡姉別から根釧国境を越え根室国根室郡西別(昭和47年以後の野付郡別海町別海地区)に至る川船6里(23.6km)余の経路もあった。海上交通は、北前船の航路が開かれ厚岸に寄航することもあった。また、厚岸郡姉別から根室国根室郡根室まで海上9里(35.3km)余の航路も存在した。 元禄14年、アッケシ場所の一部を割きキイタップ場所(現・浜中町)が開かれている(後にアッケシ場所に再統合)。寛政3年最上徳内により厚岸に厚岸神社
厚岸町(あっけしちょう)
浜中町(はまなかちょう)
郡域
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の厚岸郡の町村(6.厚岸町 7.浜中村 8.太田村 黄:厚岸町 赤:川上郡標茶町 青:区域が発足時と同じ町村)
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、釧路国および厚岸郡が設置される。開拓使が管轄。
8月17日(1869年9月22日) - 佐賀藩の領地となる(北海道の分領支配)。
明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び全域が開拓使の管轄となる。
明治5年
4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
第24大区
3小区 : 湾月町、榊町、苫多村、真竜村、奔渡村、床潭村、末広村、散布村、璃瑠蘭村、浜中村、昆布盛村、厚岸村、別寒辺牛村、帆似恋村、辺土江村、小原内村、琵琶瀬村、後静村、落石村