厄災
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厄年(やくどし)は、日本などで厄災が多く降りかかるとされる年齢である[1]。科学的な根拠はなく、陰陽道由来とされるものの出典は曖昧である。平安時代の書物には見られ、旧来から根強く信じられている風習である。
概要

厄年一覧(日本国内の一般例)前厄本厄後厄

性23歳24歳25歳
41歳42歳43歳
60歳61歳62歳


性18歳19歳20歳
32歳33歳34歳
36歳37歳38歳
60歳61歳62歳

一般的に男性と女性で異なり、本厄は男性が数え年で25歳、42歳、61歳、女性が19歳、33歳、37歳とされている[2]。特に男性の42歳、女性の33歳は大厄と呼ばれ、凶事や災難に遭う率が非常に高く十分な警戒を要するとされる。父親が42歳の時に数え歳2歳の男児は四二に二を加えると「四四(死死)」になることから、「四十二の二つ子」として親を食い殺すと迷信されて忌み嫌われ、仮に一度捨てて他人に拾わせて育てるなどの風習があった[3]

いずれの厄年も前後1年間に、厄の前兆が現れるとされる前厄年、厄の恐れが薄らいでいくとされる後厄年、の期間があり、本厄と同様に注意を要するとされる。本厄の年に「厄祓い」や「厄除け」を受け、神仏の加護を得て凶事や災難を未然に防ぐ慣習がある。

厄年の数え方や行事は地域や寺社ごとの差異も大きい。通常は厄年の年齢に数え年を用いるが、川崎大師などは数え年ではなく満年齢で厄年を計算する[4]

地域や宗派などにより61歳の還暦を男女共通で厄年とする場合や、神社により大厄のみに前厄、後厄を設け、小厄(大厄以外の本厄)は設けない場合がある。

風習として様々な地方で幅広く根付いており、厄除け参りや地域の行事として祭礼のように祝う事例もみられる。広義の厄年に七五三を含める地方は、男性女性ともに厄年の最少年齢は3歳(数え年)である。厄年の数え方も、25歳を「五五の厄年」など掛け算にするなどの風習もある。
数え年

「数え年」の加算日は神社により異なり、グレゴリオ暦(新暦)1月1日とするもの、立春の日(通常は2月4日[注釈 1])とするものがある。
数え年の加算日をグレゴリオ暦1月1日とする場合

誕生日から大晦日[注釈 2]までの期間は「満年齢+1」、ほかの期間は「満年齢+2」で計算する[注釈 3]
数え年の加算日を立春の日とする場合

元日から立春前日までの誕生日は、立春の日から大晦日まで前述の数え年[注釈 4]に1を加える。

立春の日から大晦日までの誕生日は、元日から立春の日前日まで前述の数え年から1を減じる。

前2者に該当しない場合は、前述による数え年と同じ。

数え年の加算日を旧正月とする場合もあるが、煩雑となるためあまり用いられない。立春を加算日とするのも、旧正月による加算が煩雑となるため簡便化とした方法である。
厄年の説明

厄年は根拠が無く迷信とされる。解説なども見られるが証明する統計などはみられない。

文化人類学者の小松和彦は、「平安時代は貴族は毎年厄払いをしていた。江戸時代に入って暦の普及とともに厄年も普及し神社仏閣での厄除けが流行した。現代は成人儀礼として行われている」と述べている[5]

神道学者の三橋健は、経験則的にこの時期に人生の節目になるとされている年だと述べている。

井上円了は生理上身体の一変する時期を経験的に測ったものだったのが、縁起を担いだ忌み数や言葉遊び(19は「重苦」に通じ、49は「始終苦」に通じ、42は「死に」に通じ、33は「惨々」に通じる)が流入したと推測する[6]

文献

陰陽道に起源があると考えられているが出典は定かではない。厄年の年齢と理由はさまざまである。
平安時代

平安時代の『色葉字類抄』に、「厄 ヤク 十三 廿五 卅七 (四十)九 六十一 七十三 八十五 九十七 謂元事[7]」、鎌倉時代に成立した『拾芥抄』下末八卦では清原枝賢等筆永正7年(1510年)写本では「厄年 十三 廿五 卅七 四十九 六十一 七十三 九十九[8]」、寛永9年(1632年)の刊本では「厄年 十三 二十五 三十七 四十九 六十一 八十五 九十九[9]」とある。

宇津保物語』楼上巻上に「左大臣どのの厄年におはするとて大饗せられぬは」とあり、文献上で厄年の初見とされる。


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